みなさんこんにちは✨
今日も当サイトを見にきてくださり、ありがとうございます✨
梅雨が明けそうですね。洗濯物が乾くのは嬉しいけれど、暑くなるのは嫌だなぁ…あと蚊も嫌。娘がとても刺されやすいんです💦
さて。
先日私は発達障害を抱える子供の進路をテーマにした勉強会に参加しました。
そこで感じた、発達障害を抱える我が息子の『環境を整える』ことについて考えさせられたのでその雑感を記しておこうと思います。
『環境を整える』ことと『甘やかす』ことの違いはなんだろう。このことについて考え込んでしまいました。
“完璧な環境”はあり得ませんが、ミスマッチは最小にしてやりたいと思います。
発達障害を抱える子供の進路選択セミナーに参加して
事実:息子はどこにでも馴染める子ではない
今週の初め頃、私は株式会社リタリコ主催の『個性にあった小学校・中学校選び』というオンラインセミナーをを聞いていました。
発達障害を抱える私の息子。それは昨年の今頃に初めて気づいたもので、それからよくよく観察してきたところ、彼には[自閉症スペクトラム+ADHD]の特性がありそうです(未診断です)。
息子は現在中学受験を目標として少しずつ勉強を始めており、私は彼の志望校に関する情報を集めています。
それで『何かの足しになるかな?』と思って参加したのが今回のセミナー。
その感想も交えて、考えてしまったことを今日は徒然と書いておこうと思います。
私たちが住んでいる地域は東京都内でも都心に近く、『通学圏内』という観点で言えば息子の中学の進学先はまさに無数と言えるほどの学校の中から選ぶことが可能です。選択肢が多過ぎて困ります💦
我が家が中学受験を検討したことは、以下の2点を主な動機としています。
- 公立中学での『内申点』という、息子には不利になるに違いない制度をできれば避けたい
- 学習方法を習得し、学力を伸ばすことで彼の自信を育みたい
あとはまぁ、高校受験がなければ中学3年生時をより有意義に過ごせるし(海外に短期留学させようと計画しています)、さらに言えば、小学生になってから時々あった息子が『学校に行きたくない』と言い得たいくつかの事象を鑑みて、できるだけ自由な校風の学校であれば息子は才覚を伸ばすかな?と期待していることもあります。
私がここで言う『自由な校風』というのは、
自由=結果が出ていればOKとしてくれる雰囲気がある、と捉えています。
私自身が卒業した富山市内の県立高校も、割と自由な校風でした。そこで私はとても伸び伸びとした充実した学校生活を送りました。
自己責任と自己裁量。息子にもそのような環境が合うのではないか。自律の意識で、自分の進むべき道を模索して欲しいと願っています。
さて。ここで軽視できないのは、私の息子はどこにでも馴染めるような子ではないという事実です。
だからこそ、情報収集がとっても大事。そこでリタリコの『個性にあった小学校・中学校選び』というセミナーを聞きました。
環境選びの考え方
発達障害は、個性の一つ。
だけどこの『個性』x『環境』にミスマッチが起こることで生きづらさが生まれてしまう。
同じ特性を持った人でも、困難を抱えて特別な理解や配慮が必要な環境にあれば発達障害と診断されるし、別に困ってなければただの個性で済むわけです。
すなわち環境選びの考え方は、このミスマッチをできるだけ避けることを目指すことが基本のよう。
セミナーの中で紹介された例に、私と息子の経験に照らして「なるほど」と思ったことがありました。
《公文式》の学習は本当に“向く子”と”向かない子”がいる、という例え話。
経験のある方も多いと思いますが、公文式は指示された課題についてこれでもかという繰り返しの反復訓練の学習です。
30年以上前の私自身の話になりますが、私は小学生になったときから高学年頃まで公文式の教室に通いました。本心ではあまり楽しくなかったけれど、私は行くしかありませんでした。両親が共働きだったので、今で言う学童保育のような位置付けでした。
私自身は、なんだかんだ言いつつも、公文式での学習が自分の学力の基礎になったことを強く実感している派です。だから私は息子が生まれて、息子にも心から良かれと思って彼が4歳になったときから公文式に通わせました。
まぁしかしこれがまた。息子は全っ然、出来なかったんですよ😅
息子は本当に興味がなかったんでしょうね〜。小さい頃は楽しそうにやっていましたが大きくなるにつれて宿題もやらなくなったし、私はそれが残念だったので時には叱ったりして指摘をすると息子は癇癪を起こすこともしょっちゅうで、結局小学3年生になるまでダラダラと通いましたがあまり良い思い出にはなりませんでした。
そんな息子は低学年ではスマイルゼミ、高学年ではRISUなどのタブレット型の学習(↓)にはなかなか好感触を示しました。自分のペースでスイスイと進めていきました。もっと早く切り替えてあげればよかったなぁと思っています。
まぁつまり、こういうのが“ミスマッチ”ってことなんですよ😲
自身の経験として、すごく腑に落ちた感じがしました。
お互いの幸福を最大化するために、ミスマッチはできるだけ避けたい。それが環境選びの基本なのだと理解しました。
出来ないことはやらなくても良いと言うこと?
ふと。ここで私は思いました。
“個性”として公文式が合わない子には、まぁ所詮はこれは習い事の一つであるので辞めてしまえばOKです。習い事は他にもあるし、学習補佐の代替手段としてタブレット学習が合うのならばその子にはそれが良いのだと言えるでしょう。
だけどそれって、出来ないことはやらなくても良しとすることになるんじゃない?それって、“甘やかす”ことと何が違うんだろう?と思いました。
(↑こういうどうでも良いところ(?)にこだわる思考回路が、私の発達障害の特性ゆえかもしれません。くどいかもしれないので興味のない人は読まないでくださいね〜😅)
例えばですよ。
公文式は合わないのね。
じゃあ辞めてタブレット学習にしようか。
それも合わないのね。
じゃあ塾に行ってみようか。
それも合わないのね…
家庭教師は。
…
ってなったら、どうするん?、って思っちゃう。
もちろん私は、『個性に合わせた環境を整える』=『出来ることを伸ばす』ものだと、頭では十分わかっています。
だけど私はどうしてもそこには裏表の関係で『出来ないことはやらなくても良いのよ』が必ず付きまとう気がして、『それで良いのか?』と言う思いにモヤモヤします。
結果如何にかかわらず、“努力”は自分がすることも、努力の仕方を子供に教えることもとても大事なことだと思います。
環境を整えることの難しさ
甘やかすこととの違いがわからない
ここで、先日の息子の計算ドリル隠蔽事件へと話が変わります。(以前の記事をご参照ください↓)
息子は本人がその意義を全く感じていないために、小学校で宿題に出される計算ドリルをこの時期まで一切やっていませんでした。
「嫌だけどやる」ということが出来ないことが息子の特性であり個性です。
計算ドリルをやること自体が息子にとっては大きな苦痛。先週から少しずつやらせていますが、時々机を大きな音で叩いたり、足をバタバタ、ガタガタさせて歯を食いしばり、ものすごくストレスフルな表情でやっています。
『間違い直し』なんてもってのほかです。
よくできてるけど、1つだけ計算ミスがあったよ〜(←私なりに気を遣っている。事実のみ伝える。)
なんて言おうもんならもう大変。
もう終わったじゃん!ぼくはきちんとやった!今日は終わりなの!
って大爆発だし、落ち着いてからまた机に向かわせてももう不機嫌にふんぞり返って、完全な拒否反応が全開です。
嫌なんだろうなぁ。計算ミスだって理解不足ではない“ただのミス”だし、『ドリルをやった』こと自体を評価してやれば良いような気がするけど仕方ない。
つまり、他人からみれば『そんなもの』と思うものでも、息子にとってはとても苦しいことのようなのです。
だけどそこで親として、こんなことが言えるだろうか。
この宿題は、あなたの個性に合わないね。宿題の質が合ってなくてミスマッチだよ。
どう?おかしい?
それって単に“甘やかしてるだけ”と何が違うんだろう…と思うのですよ。
正直なところ、私は息子が学習の理解を十分得ているならば(←大前提!)、計算ドリルなんてやってもやらなくてもどちらでも全く構わないと本心では思っています。
先日はこんなご意見もいただきました。
それホント真実だと思う。すごい勢いで頷きました。本当に今すぐ廃止にしてほしいよ、できるなら今すぐに。
そしてこの方はこういうことも仰いました。
そう。個人的にどう思っていようとも、『だからやらなくて良い』と積極的に我が子に言える親は居ないのです…。やっていないことを黙認するしかできないよね。すごーくわかる。難しい。
本当のミスマッチは小学校の評価システムなんですが
息子がもし、
『(ドリルは全くやってないけど)テストでしっかり点が取れてるからこの子はバッチリ高評価🌟』
そう評価してもらえるような環境の中に居るのであれば、日々のドリルをやらないことは息子にとって全く問題ではないのです。
しかし残念ながら、息子の小学校ではドリルが未提出だと通知表の評価は低くなります(ドリルのせいだけではないかもしれませんが😅)。そういう評価システムなのです。
さらに息子の場合は通知表の低評価が本人の自己肯定感にも影響を及ぼしているような気がしていて、私はこれを慎重に捉えています。
4年生時の通知表は、クシャクシャにされているのを、何日も経ってから私が見ました。息子が渡そうとしなかったのです。
その評価は昨年の混乱(“発達障害に気づくまで”のカテゴリーをご参照ください)を思うと当然であるし仕方がないと納得できるものなのですが、一方で私は『息子なりには精一杯、もしかしたら“普通”のお子さん以上に頑張っていたかもしれないのにな…』、とも思いました。私は息子の気持ちを思い、胸が痛みました。
息子の個性と本当にミスマッチなのは、今の小学校(おそらく公立中学校も)の評価システムのあり方です。
だけどこれは個人の事情で変えてもらえるものではありません。
さらには、これからどこにいっても完全にマッチした『完璧な環境』というものはあり得ません。できるだけミスマッチのない環境を選んで行きながらも、どうしても生じるミスマッチに対してはやっぱり適応する努力をしなければならないのだと思います。
譲ることも諦めることもなく、これを好機と捉えて『やれば認められるのだ!頑張ってよかったね!』という成功体験に変えていかせなくてはならないのだろうとは思います。
あぁ、発達障害って本当に難儀😅
他の人にはちょっとしたことでさえ、同じことをやろうとするには大きな苦しみと労力が要るのです。分からない人には、本当に全く分からないだろうな〜。だから無理解な人がいるのも仕方ないことではありますよ。
と、今日はここまでにしようかな。なんだか長くなっちゃったよ。
余談ですが
ここまでと言いつつ、余談です。
どうやったらそのミスマッチを成功体験に変えていくことができるのだろう?
そのヒントが得られないかなーと思いまして、私は息子の状況を踏まえ、先日のリタリコの勉強会で講師をされていた方に質問してみました。
その回答は、『どこに行ってもやらなくてはならないことはありますよね。完璧な環境はありません(←そのとおり!)。子供が好きな要素を取り入れながら意欲を出させるようにしてみたらいかがでしょう?』
というものでした。
つまりゲームが好きならゲーム性を持たせるとかして意欲を引き出せないかと言う話でした。
うん、ホントにその通りなんです。私も昨年からペアレントトレーニングを受講して、そのようなことを習いました。良策だろうし、そうするしかないんだろうなと思います。
だけどさ、これって実際のところ、すごーく難しいんだよね。息子を見てきて、話はそう単純ではないなというのも私の強い実感です。そもそも、『嫌で嫌で仕方がないレベルの苦痛』って、そう簡単に乗り越えられるものじゃないんですよ。(それでもたまーに響くことがあるので、それを探してあの手この手で工夫を重ねていくことには挑むんですけどね…。)
例を挙げましょう。
大人で例えるならば、ですよ。
『生理的なレベルでものすごく嫌いな人(←いたら思い浮かべてみてください😐)と、他の人と同じように普通に接しろ、可能なら仲良くなれ』って言われたら、無理じゃない?
『おいおい、無茶なこと言うなよ』、って思うよね。
ましてやそれを他人に『よーし!あなたゲーム好きでしょ?じゃあゲーム感覚で仲良くなろう!どっちが先に仲良くなれるか私と競争だ!😊👍』とか言われたらどう思う?それ、余計に無理だと思うんだよね。嫌な気持ちを誤魔化されているみたいで、私なら怒ってしまうかもしれません。
もしくは『仲良くなったらご褒美があるよ!達成感も感じられるよ!😁』って言われたら?私なら、『褒美なんかいらねーし』って言うんじゃないかなって思うんですよ。
つまりね、発達障害って、そういうことだと思うのです。生理的レベルで強いストレスを感じることを“みんなと同じであるように”と強要されている感じです。
それに親だって素人なのに、そんな息子をいつでも想い心配し、息子になんとか健やかに育って欲しいと導かなければならない親も辛いです。本当に苦悩の連続です。(そういうのを、カサンドラ症候群って言うんですってね。他人事じゃないわ。)
そんなこんなで、我が家では毎日なんでも起こるので、発達障害を抱える息子の母として、また、発達障害を抱えるであろう自身の経験を振り返り、色々と考えるようになりました。当サイトを介しては気持ちや情報も共有してくださる方がたくさんいて、とても心強く思っています。
息子にはより適した環境を整えてやりたいとは思うけれど、どこへ行っても息子の困難は全てが解決されるわけではないんだろうね。
今のところは、いつか『まぁ息子なら大丈夫でしょ😊』って信じて待つ境地に達することができれば良いな〜という希望だけ持っておきます。
ホントにここまで。今日はだらだらとまとまりもなく長く書きすぎました。なんか疲れた😅
コメント
私自身は、計ド漢ドは続けて欲しい派です。
子供に自宅学習の習慣をつける。
復習、予習の習慣をつける。
わかっていることでも愚直に取り組む姿勢をつける。
だけでなく、
親子で問題に取り組む習慣をつける(自分でやるというならやらせてみるし、わからないというなら、つまづいているところを一緒に探して、教科書の該当箇所を探して読ませてもう一度やってごらんという)。
答え合わせをすることや理解度の足りない部分を教えることで、子供の理解度の進捗を親が把握できる。
字の上達度や、新しい知識を学習したことを把握しやすいので子供の成長を日々の話題にしやすい。
子供の理解が分野によって縦に深いのか、横に広いのか、穴だらけなのか、ケアレスミスが多い箇所はどこか、得意な分野、興味があるけど苦手な分野、各教科の勉強スタイルの違いなど、宿題をみてあげることだけで子供の学習面でわかることがたくさんあるからです。
また、興味のありそうな本を勧める時の参考になりやすいですね。
こう言った部分はテストの点数や、通知表の先生の評価ではわかりません。また、自分が常日頃観察している子供の学習レベルとテストの点数や先生の評価の違いを考える材料になるので、宿題を見てあげることは子供の学習を考える上で必須だと思います。
あとテストの成績や通知表の成績が良くても悪くても子供に対して言うことは、成績評価の仕組みを教えてあげ、その仕組みに適合した人の成績がよくなると教えます。もし成績をあげたければやり方を教えるよ、と言うだけです。ゲームの攻略法を相談するノリです。子供が理解していることは宿題をしたり、テストの見直しをしていればわかっているので、子供本人にはテストの成績はどうあれ、習ったことを理解しているんだからいいんじゃん、と言ってます。勉強の目的はいい成績をとることではないので。
例えば、漢ドをしていて、「漢字の左右の字の書き順がなんで違うの?」と子供に聞かれます。親子で理由を調べて、なるほどーと二人で納得して、その話題を自然に発展させるのができるのが、家庭で宿題を見てあげることじゃないかな、と思います。成果を気にせず、学ぶことの楽しさと方法を教えるのが大事じゃないかな。
じゃね。