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#14 私の不調の始まり

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当サイトの開設に至る経緯-混乱の記録

みなさんこんにちは✨

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新型コロナウイルス感染症の流行に伴う一斉休校をきっかけに、私の息子は大きく調子を崩しました。

もう限界だ、どこか小児の精神科を受診しよう。

そう考えていた矢先に私の実母が倒れ、我が家は新型コロナウイルス感染症の当事者になったことが息子の精神状態を決定的に崩れ落としました。

実母の入院と混乱

息子の絶不調

重度の低ナトリウム血症のためにICUに入院した私の実母。

ICUに入る前に念のために撮影したレントゲン検査において肺炎があることがわかり、実母はコロナウイルス感染症の感染の有無を調べるための検査を受けることになりました。

 

私も、当時に母が入所していた施設の職員の皆様もなんてことだと項垂れました。

だけど落ち着いて、できるだけのことをしながら2日後の夕方に判る検査結果を待つしかないのだということは重々理解をしていました。

 

しかし私の息子はそれを受け入れられませんでした。

一斉休校により社会と切り離されたストレスに加え、息子は未知の感染症を怖れるあまり少しの外出すら異常に嫌がるようになっていたのです。

その未知のウイルスを、自分の母親が保有しているかもしれない。

または、外に出なければ安全だと思われていたのに、これからは家の中も安全ではなくなってしまうと思ったかもしれません。

もしくは、ただただ彼の頭の中で警報機が鳴り響き、何も考えられなくなっていたのかもしれません。

息子の意識は内にこもり、意志を持って動くことができなくなり、日常生活における食事や排泄にも支障をきたすようになりました。

我が家の混乱

その当時、我が家の生活は困難を極めました。

実母と接触している私は自宅に帰りはしましたが家族と食事、寝室を完全に分けて、子供たちとの接触もできるだけ短い時間になるように心がけました。

私はその間別室で過ごし、職場の規定に添って家族が感染の検査を受けることになったことを所属長や所長へ報告し、さらには感染症対策チームの指示に従いいくつかの手続きや報告書を書きました。

 

まだ2歳だった幼い娘は扉の向こうで「抱っこ抱っこ」と言い泣いています。

息子の生活を維持することにも、大きな困難がありました。

だけど私は、娘を長く抱っこすることも、息子の生活も何も手伝ってあげることはできません。

1人で”甘えたがりの娘”と”完全に機能停止した息子”の世話をする夫にも、だんだんとイライラが募っていく様子が見られました。

 

時々、夫の大声が聞こえてきます。

くせーんだよ!ふざけるな!

息子がじっと部屋で動かず、そのまま便が漏れていたことがわかったのです。

夫の乱暴な、吐き捨てるような言い方でした。

食えって言ってんだろ!

息子が何を用意しても何も食べないのです。

息子は食べないのに、顔は丸く体はむくんでいきました。夫はそれに気づいていても、どうしていいかわからないのです。

 

私たちも、ただただ混乱していたのです。

動けないし目を離せない息子がいるので、夫は好きな食材を買いにいくこともできません。家にあるもので工夫して食事を用意することにも苦労していました。

そもそも夫はずっと転勤族で、息子の幼少期はずっと海外に単身赴任をしていました。”変わった子だ”と私がずっと感じながら育ててきた、手のかかる”息子の実態”を夫はほとんど知らないのです。

夫には、息子の父としての経験値がほとんどないのです。

だからこんな状況は一層理解できないだろうし、理解を超えることに辛抱できるわけがありません。

もちろんずっと息子と2人で暮らしてきた私だって、当時の息子の異変には戸惑うばかりでどうしたら良いのかなど何もわかりませんでした。

 

2日後の夕方、電話が鳴りました。

実母が入所していた施設の職員の方からでした。

『検査結果については、まだ連絡はありませんか?』

施設の方も、気が気ではないのでしょう。

『まだ連絡はありません。もう少しして連絡がないようならこちらから問い合わせてみますのでお待ちください。』

そう返事をして、検査結果を待ちました。

幸いその後すぐに『今回は陰性の結果だった』との連絡を受けました。

私たちはまずは安堵し、ようやく”それからのこと”を考える余裕ができました。

私の不調の始まり

実母との面会は不要です

私の実母が倒れ搬送されたのが5月2日、GWの始まり頃でした。

コロナウイルス感染が陰性であることが判り、再び家の中での生活スタイルを夫婦2人体制に立て直しました。

そしてようやく私は母の入院先である板橋区内の総合病院へ入院に必要なものを持って行き、母の治療状況について話を聞きにいくことができました。

担当医の話では、母の状態は悪くなく、もうすぐICUも出られるだろうと言われました。

しかし衰弱しているので、体力が戻るまでしばらくは入院したほうが良いだろうとのことで、退院の日取りについては改めて相談することになりました。

 

『ただ、このような状況下なので、申し訳ありませんが病棟への立ち入りはもちろん、お母様に会っていただくことはできないのです。』

『もしご要望があればインターネット(Zoom)を介してお話ししていただくことには対応させてもらっています。お顔を見て話されますか?

 

担当医は病院のサービスとして、このような面会手段がありますよと案内を下さったのだと思います。

 

だけどこの時、私にはそんな余裕も必要性も全くありませんでした。

担当医と向かい合っても、(終わったら一刻も早く家に帰らせてくれ)と願いながら話を聞いている私がいました。

『母との面会は不要です。退院日はまた連絡くださいじゃあまたよろしくお願いします。』

そう言いきって席を立った私を、驚いたように見上げた医師の顔が忘れられません。

 

冷たい娘だと、思われただろうか。

良かれと思ってした提案を断るなんて、と思われただろうか。

だけどその時の私は、正直もう、母のことは本当にどうでも良かったのです。

 

倒れる前から、もう10年以上も前から精神科の閉鎖病棟の中で暮らした母は既に、こちらが母の機嫌を取ることはあっても、母が私たちにとって有益なことを話すことは無くなっていたのです。その上今は意識も朦朧としているだろうし、そんな母と何を話せと言うのか。

むしろ息子が大変な時に余計な手を掛けられてどうしてくれる、本当に手一杯だ。

それが私の正直な気持ちでした。

  

育ててもらった感謝?

お母さんのことだもんね、心配でしょう?

この後、私は母の退院、母の衣食住の世話、当時の施設からの退去と新しい施設を探すための福祉相談に奔走します。

だけど行く先々で言われるのです。

『一緒にお住まいになれば良いでしょう?』、と。

私はそれを言われるたびに、私は複雑な自分の気持ちを抑えることに苦しみました。

 

『これから母と暮らすことは一切想定していません。』

どこで何度聞かれても私はそう答えました。だけどその度に相手は皆、あの時の担当医のような顔をして驚くのです。

それがすごく苦しかったし、嫌でした。

 

娘だからか?女だからか?

既に所帯を持っている働き盛りの息子を相手にしても、この人は同じことを当然のように言うのだろうか?

母を引き取らない私が悪いって言うのか!!

それからそんな機会があるたびに私の心にはそんな思いが湧いてきて、私はどんどん苦しくなっていきました。

 

近くにいる実子としてできるだけのことはするけれど、出来ないものは出来ないのだ。

私は18歳で家を出ました。母とは18歳までの子供の時に暮らしたのみです。18年間育ててもらったという感謝はそれなりにあるけれど、それは私の”これから”とは全く別の話だと思っていました。

 

私は自分の家族が最優先であり、その自分の家族自体が今危機的な状況にある。なによりも誰よりも大切な最愛の息子が今、誰よりも苦しんでいる。そのほかのことに手なんか割けないし割きたくもない。

その思いは強く変わりませんが、なんだかずっと胸が苦しくて嫌な感じがしていました。

 

この頃から徐々に私の不調も始まったように、今では思います。

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