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“非”定型発達から見る定型発達への不思議感

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10歳・小5

みなさんこんにちは✨

今日も当サイトを見にきてくださり、ありがとうございます✨

今夏、息子が予定していた学校連携によるオリンピック観戦ですが、すったもんだの末に結局『中止』という連絡が入りました。

かねてから無観客も検討されていた東京五輪。だけど学校連携観戦については情報がないままでした。

私はワクチンを打っていない子供をましてや炎天下であろうオリンピック会場に送り出すのもどうかなぁ…と戸惑い迷っていましたが、息子本人に意向を聞いてみたら、

息子
息子

なんで?オリンピックは普通に観に行きたいと思ってるけど?

とアッサリ言われて驚きました(←行きたがっていることは実は意外でした、笑)。ならばと学校指定の『確認書』とやらにサインもし、熱中症で倒れたら迎えに飛んで行くため万全のスケジュール体制も整えていたところでした。

まぁでも中止か。

オリンピックには国中が振り回されてる感がありますが、直接観戦する機会を失い残念がる息子はちょっと可哀想な気もします。

私

まぁでも、あなたにはきっとまたチャンスがあるよ。お母さんは人生最後だったかもしれないけどね。

息子とそんなやりとりをしたところ。

そう、これから私が現地で直接観戦する機会なんて、きっと息子か娘かその子供らがオリンピックに出場する時以外にありえまい。

しかし息子がオリンピックに興味があったとは知らなんだ。てっきり無関心で会場まで観戦に行くことを嫌がるかと思ってました😅。今夏はせめても、家のテレビで楽しく観戦したいと思います。

さて、今日は私の雑感を徒然と。

わたし
わたし

いわゆる“普通の人”のものの捉え方について不思議に思っています。

興味のないことには取り組めないのは当たり前

人間誰しも、そうではないの?

先日、私は息子の計算ドリル隠蔽事件(詳細は前記事↓をご覧ください)を例に挙げ、息子は『興味のないことには本当に一切取り組むことができない』ことを書きました。

 

本当に見事に一貫して、息子は興味関心の無いことに取り組むことができません。

嫌だけどやるとか、そういうことは無理っぽい。あの手この手でやらなくて良いように流していく。

ここまでやれば、なかなか立派であるとも言いたくなる。(言わんけど)

 

計算ドリル隠蔽事件に限りません。

他には、食事もそう。興味がないので集中しない(以前の記事をご参照ください↓)。

あとは、学用品の準備や片付けも全然しない。だから忘れ物も多いしすぐに物を失くしてしまう。それに部屋の片付けをすることや、さらにはいつもいつも靴下を裏返しにして洗濯カゴに入れていることもそうかもしれない。なんならパンツとズボンもセットでクルクルになったまま洗濯カゴに入ってる。

 

私は何度も注意をしました。言い方を変えて、何百回、何千回のレベルで言い聞かせたと思います。

だけど一向に改善しない。

これはつまり、息子に興味関心が無いことの結果であって、その行動に自分なりの意義づけが成されていないためなのだろうなとは思っています。

 

一方で、息子は読書やゲームにはまさに寝食を忘れてさえも熱中できます。この集中力は大したものです。さらにその時の姿勢も背筋を伸ばして美しい。

好きなことには発揮できるその高い集中力を、なんとか他のことにも向けて欲しい。

私が願うのはそういうこと。

だけどそう思った時、私はふとした違和感を感じました。

 

…これはさ、私もそうだよ。同じだよ。

私も好きな本を読んだり、好き勝手な文章を徒然と当サイトに書くことも、何かの企画を練り上げることや新しいものを作ること、絵を描くことや動画編集、さらには登山の計画だって、できることならいつまでもいつまでも納得いくまでずっとやっていたいと思っているし、中断されるとすごく嫌な気持ちになります。大学生の頃、一人暮らしの部屋でゲームに熱中しすぎて気づいたら3日(64時間ほど)経っていたこともありました(←一人暮らしの自由さと恐ろしさを感じた経験です)

 

ここで私は思った。

興味がないことを「やりたくないな」って思うことって、当たり前じゃない?

大好きなことを「いつまでもやりたいな」って思うことって、当たり前でしょう?

だれしも人間、そうじゃないの?

それに子供はいっそう未熟なのだから、そう考えていくと息子の行動パターンは全人類の“デフォルト”のような気さえしてきます。

ちがう?“普通”の人はそういうことはないですか?

好きなことはずっとやりたい、そうじゃないものはやりたくない。当たり前だよ。

それが当たり前であると仮定したならば、私はだんだんと不思議になってきた。

だったらどうして多くの“普通(発達障害をもたない定型発達)の子”は、粛々と日々の宿題のドリルをやることが出来ているのだろうか?

友達からの電話

こんなことを考えだしたのはきっかけがあって、先日にすごく久しぶりに学生時代からの古い友達が電話をくれたことでした。

頼まれ用事があって、そのついでにちょっと世間話。このサイトもたまに見てくれてるって言ってて嬉しかった。

その際、彼が言った一言に私はハッとしました。

クロ(古い友達)
クロ(古い友達)

ブログたまに見てるけどさ〜。

昔はナオミちゃんもそんな感じだったぜ?基準軸が人とずれてたよ。かなり変わってたと思うよ?

えー!そんなふうに見えてたんかーい!

言われてみれば、私は大人になって少しはマシになったつもりであるが、私もまた明確な発達障害傾向(おそらく息子と同じタイプ)があるのだった。忘れていた。

 

…学生時代。そういえば生化学の試験問題が意味不明であるといって教員に食ってかかったことがあるような。

『この書き方だと、この問題は他の意味にも取れます。文章は正確に書いてもらわないとこちらとしては答えられませんが?』とかなんとか、嫌な言い方で文句をつけた覚えがある。

だけど試験が終わって友達に聞いたら『何言ってんの?普通こうでしょ、他の意味には取れないよ。』って言われたことに、私はとても驚きました。青天の霹靂、意味不明、理解不能。ちょっとしたパニックに陥ったことを覚えています。

それからも考えたけど私はどうしてもみんなと同じように読めなかったから結局その試験は書けなかったし、むしろあんなくだらない試験、意地でも書かん!』みたいな意固地になって臨戦体制さながらかなり長くプリプリしていたような記憶が蘇りました…。

 

まぁ、電話をくれた古い友達が言ってたのはたぶんそういう事とかだろうなぁ〜と思ったりしたわけです。

発達障害者は“本気で”理解していない

あの時、受けるべき試験を意固地になって書かなかった私は、しかも『問題の書き方が悪い』と言ってそれを“他者のせい”にした私は、まさに今の息子と同じだったのではなかろうか。

 

あの時のことを、思い出してみました。

あの時、私は確かに本気でした。

本気で、私には理解不能だったのです。だからそのような程度の低いものに手を割く必要性はないとさえ思ったし、答えも断固として書かなかった気がします。なんなら自分の正当性を自分の独自論理で誰かに一方的に語ったかもしれません。

若かった頃、私は自分が納得しないものに断固として沿わないことを『自分への礼儀を欠きたくないからだ』とよく言葉にして言っていました。当時の私にはそれくらい、納得しないことには信念を持ってやらないという意思が当たり前のようにありました。(←今思えばどうしようもないお嬢さんだったわ…と思います。当時からの友達のみんな、なんかホントごめん😞)

 

さて。そう思うと、息子の見え方が変わってきます。

息子の計算ドリル隠蔽事件も、ただサボりたいとかそういう安易なレベルではなく、彼は本気でその意義を理解していないから、断固とした信念を持って取り組んでいないのかもしれないな、と思いました。

だからやらない。自分だけがやらないことに罪悪感や後ろめたさも感じてない。だって彼の中では当たり前で、当然のことをしているつもりなのだから。

息子
息子

5年生から計算ドリルは廃止されたんだって。

そんな息子の小芝居も、彼にとっては母親の目をかいくぐる必要があったから必然に打った飾りの小芝居であって、それは事態の本質ではないのだろうと思えてきます。

 

まぁ、そういう“謎の当たり前”を持ってしまうところが、“発達障害ならでは”なのかもしれませんけどね😅

しかしここで言いたいことは、それが世によく言う『こだわりが強くて、興味があることとないことに対する集中力の差が激しい』と表現されることの、発達障害者の本態なのかもしれないということです。

 

発達障害を抱える人間は、独自の“当たり前”の中で生きている。

多少、その軸が世間の大多数とはずれているかもしれません。

だけど当たり前って何だろう。

そもそも、興味がないことを「やりたくない」って思うことは、当たり前の感情ではなかろうか?

だれしも人間、そうじゃないの?

だったら、発達障害ではない子供は、どうして宿題のドリルをやっていけるのだろう?

と、そう不思議に思ったのです。

“普通”の人はどう捉えているのだろうか

嫌な気持ちがあるのかないのか

いわゆる“普通”の、発達障害ではない(定型発達の)お子さんは、もしかしたらドリルが割と好きなのかもしれない。

もしかして、みんなは喜んでやっているのかな?

チラリとそうは思いましたが、どうやらそういうわけではなさそうです。

こんな話を聞きました。

Kさん
Kさん

ウチは、やりたくないけどやらずに行って友達に「アイツだけ特別扱いされてる」って言われるのが嫌だから、やらないのも嫌だった。だ、そうです😅

先日の当サイトの記事を読んでくださった方がご自身の息子さんにまで話を聞いてくださり、息子さんがそう言っていたと教えてくださいました。

なるほど。嫌だという気持ちはあるらしい。

“普通”のお子さんにも、一応「嫌だな」と思う気持ちはあるらしい。

だけどそこに友達とか社会的な体裁とかが加わってくることで、自分の気持ちに折り合いをつけることが出来るらしい。

感情としては嫌だけど、やったほうが総合的にお得であることは知っている』のが彼の軸。

なるほど。だから、『嫌だけど、渋々でも出来る』のか😲

定型発達の人は、そう切り替えることが出来るのか!そうか、そういうことか。すごいなぁ。

結論:感情の問題ではないのが発達障害

大人になれば、好き嫌いに関わらず“やらねばならぬこと”というのはいつどこでだってあることを学びます。

だから大人である私は息子の計算ドリル隠蔽事件に直面し、

『学校の宿題なんか、嫌だとか面倒くさいとか、そんなものは関係ない。感情なんか押し込めて、ササッとやっちゃえばいいだろうに!』と安易に思ってしまいました。

食事の姿勢もなにもかも、もう社会的な当たり前だと思って、「そういうもんだ」と思って身につけてしまえば良いだけなのに。

私は息子に対し、そういう思いでおりました。

(私も発達障害の傾向があるので、“やらねばならぬこと”さえなにかと理由をつけて無理矢理でも“やらなくても良くしてしまう”ことは多々あります。そんな自覚はあるのですが、それは今は棚に上げます💦)

  

しかし若い頃の私が、理解不能なことには『自分への礼儀として』とかまで言って断固対応しなかったように、発達障害を抱える人は「嫌だけど」とか、そういう感情レベルの問題ではないのかもしれません。

真っ直ぐで、自分の軸は曲げられない。その軸が多数の人とは違う場所に立つことも本人には理解不能なことなのです。

だから何かについてどんなふうに言われても、“自分の中の当たり前”に照らして理解不能であることは全てが晴天の霹靂、天変地異。

無理に説得されたら混乱するし、無理にやらせることは苦痛でしかなくて、直面するとパニックをおこして頑なにさえなるのです。その混乱が傍目には癇癪のようにうつるのかもしれないなって思うわけ。

現状と経験から、私はそう理解した。

 

だから息子に時々“話が通じない(ように感じる)”ことがあるのも当然だ、って今は思っています。

別次元の“当たり前”の中で生きているんだな、ヤツは。

難儀なもんじゃ。

今は「そういうものだ」と息子をそのまま理解することしかできないのだろう、というのが一旦私の結論です

息子も経験を積めば少しは丸くなっていくのかもしれないけれど、まだまだ接する側の忍耐と工夫が必要な段階のだと理解しました。

コメント

  1. 椎名 より:

    なおみさんがどうやって丸くなっていったのか知りたいです。
    私は渋々でもやることを「割り切る」と表現しています。

    • こんにちは〜、コメントありがとう!

      割り切っちゃえば良いのよね〜、それで済むなら安いもんだと今なら思う。
      でもきっと発達障害を抱える人は、「なんで割り切る必要があるの?」って本気で思ってると思うんよ。難儀じゃ。

      私の場合、だけど。丸くなっていったのも徐々に丸くなったのではなくて、大人になって場面ごとに様々な思いをすることでまさに「段階的」に丸くなっていったような気がします。興味ある?来週あたりに書いてみようかな。

  2. 椎名 より:

    興味あるー!!
    人間は社会的な生き物だからね…やでもやらねば、の割り切りを覚えないと生きにくいよね。
    うちのもそういうひっかかり多いよ…なんとかならんかねぇ💨

    • オッケー!ちょっと来週あたり書いてみよう。

      人はひとりでは生きていけないことは当然なのに、しかし『それとこれとは別問題』なのが生きにくさの本態かもね〜。。

      なんともならんのよ。今回はそういう結論でなんかごめん😅💨

  3. hirop より:

    まいど。

    我が家では、やりたいことはやるべきことをやってから、というルールです。
    ゲームがしたい?早起きして、宿題して、食事して、歯磨きして、お風呂に入って、読書して、自分の仕事(靴並べ、トイレ掃除、皿洗い、机の片付け、洗濯物たたみ、明日の準備ほか)をしてからな、という感じです。ゲーム中にできていないことが発覚したら、即中止。やること先にやってください、というだけです(笑)。

    宿題だけを特別視することなく、日々やるべきことの一部にしたらいいんじゃないでしょうか。
    子供たちに聞いても、宿題よりもやりたいことがあるから、宿題だけに拘っているのは損みたいな話でした。だから最短で終わらせて、やりたいことをなるべく長くするんだそうです。

    あと、納得できないことは絶対できない、という話ですが、うちの子も一時期そう言うことを言っていました。印象としては物の見方が一面的だったので、見方を変えたら君の理屈が成り立たない、むしろデメリットに対する責任を負うことになる場合もあるよ、と話しました。君の考え方が絶対的に正しく、反証可能性がないことを証明できるならばしてごらん。その代わり、反証ができた場合、親の指摘にしたがってくださいと言って、ことごとく反証してあげました(笑)。

    言い聞かせるのは回数が大事なんじゃなく、子供が納得できる論理まで問題を落とし込んでお互いに納得できるところまで話合うことだと思います。片方だけが通じる論理で一方を非難しても問題は解決しません。親子の場合、親が子供のところまで降りるしかありませんから、降りてからきちんと論破すればいいと思います。あと論破しても、余計なことを子供に言って感情を逆撫でせずに、最初の約束通りにやるべきことをしてくださいと粛々と言うかんじかな。

    参考になれば幸いです。

    がんばれ、母ちゃん。

  4. hirop より:

    子供が納得できないことしかできないと言ってきたら、同じことをする動物には何がいる?と聞きます。

    群れを作る猿、狼や鹿などの動物は納得できなくても群れのリーダーの言うことをきくでしょう。群れと行動を共にしなければ死ぬ確率が上がるからです。納得できないことしかできないのは、食べたいから食べる昆虫や、交尾したくなったから交尾する動物と同じじゃないの?今やりたいことを我慢して、将来のために最善の方法をとることができるのが人間だと思うんだけど、君の行動は人間らしい行動なの?と聞いたことがあります。

    「人間だよ。あたりまえじゃん。」と子供が答えても

    「やっていることは、ミミズやバッタと変わらないじゃん。えらそうにすることじゃない。やりたいことだけするなんてえらくもなんともない、ただの我儘な動物みたいな行動で、他人に迷惑をかけたらそのうち駆除されるんじゃない?人間だというならミミズとは違う人間らしい行動原理を示してやることやってください。」

    と人間らしいふるまいを求めます(笑)。

    • こんにちは^^めっちゃ考えてもらってありがたいです😭

      そうなの。こちらとしても、『天秤にかけて、こうした方がお得だよね』ってことをそのまま理解して欲しいのに、それが根本的に通じないのがうちの息子…。言い聞かせたり話し合おうとするとワー!ってなって騒いだりするし、もうホントどうしたらいいのよって思っていたところに古い友達から『私も昔はそうだったぜ?』って言われてびっくりしました😅

      言い聞かせる回数が大事ではなく、子供が納得できるところまで話し合うというのも私はまだ至らなかったと思いました。私も根負けすることがあっていけませんでした。タイミングをみて、今一度真剣に向き合ってみようと思います。

      あと、人間らしいふるまい、容赦無いですね😁めっちゃウケました。息子に言ってやろって思った😁

  5. hirop より:

    最初の文は、納得できることしかできないと言ってきたらの間違いでしたね。

    親が根負けしたらいかんよ。子供が学習してしまいます。
    親の姿勢はぶれない。これ大事。
    あと、子供の手本になるようにすること。
    自分を棚に上げて注意しても子供は言うことは聞きませんぜ。

    がんばれ、かぁちゃん。

    じゃね。

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