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発達障害: 大人になればマシになる?-私の場合

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息子の特性を理解する

みなさんこんにちは✨

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我が家の息子は、明確な発達障害傾向を持っています(未診断)。

そして息子の母である私もまた、おそらくは同じタイプの発達障害を抱えているだろうと思っています。今思えば、私の父親は典型的な発達障害者でした。おそらくそれも同タイプ。遺伝的素因ってヤツですね、難儀なもんですよ、本当に。

だけど私が幸運だったなと思うのは、大人になるまでにさまざまな出会いや経験をすることで、私は自身の発達障害の特性と折り合いをつけることができたこと(あくまで自分比です!)

本当に幸運なことに私は深刻な二次障害に陥ることもなかったし、恩師や友人に恵まれてしっかりとした自己肯定感を育みました。

今も“普通”の人並みにとはいきませんが、ソコソコ丸くかつ思慮深く(何度も言いますが自分比です!)、まぁとにかく、は子供の頃よりも幾分かはマシになってきたという自負があるのです。

さて、そんな私は先日の記事(↓)で、

私

息子も経験を積めば少しは丸くなっていくのかもしれないけれど、まだまだ接する側の忍耐と工夫が必要な段階のだと理解しました。

と書いたことをきっかけに、『では同じような発達障害傾向を持つ私の特性は、成長に伴いどうやって丸くなったのか?』というコメントを投げかけてもらいました。

今日はせっかくの機会なので、私自身の特性について考察し、私の意識が変わったきっかけを追っていきたいと思います。

わたし
わたし

話は私が子供の頃から始まります。今から一気に書くけど、長くなるかもしれません、笑。

言いたいことが言えない子供時代

引っ込み思案?言葉が出なかった

私は富山県富山市の田舎育ちで、18歳までを富山市内の両親の家で育ちました。

この辺のことは以前に書いた気がするので、よろしければ以前の記事をご参照いただければ幸いです(↓)。

子供の頃、私は口数が少なくとても大人しい子供でした。

好きだった物は当時全盛のファミコン。どっぷり浸かって過ごしたためゲームでは今も息子と対戦できる程度には上手です。本を読んだり漫画も好きでした。アヤトリとかも得意でした。アヤトリの本を買ってもらってそれを読みながら研究していた覚えがあります。基本的に『一人で完結する』遊びが好きだったように思います。

私は、3つ年下の弟がいます。

弟との関係は、まぁ年頃の頃にはいっとき離れましたが概ねいつも良好です。常に冷静で頭の回転が早く、謎に人脈が広い自慢の弟です。

私(右:今の息子と同じ10歳頃)と変顔の弟(左:7歳頃)。天神様(←富山の人にしかわかるまい)の掛け軸と一緒に。

育った家の近所では、幼馴染と呼べる仲間達がいました。

幼馴染というのはまぁ生まれた時から一緒みたいなもので、ファミコンソフトを持って約束もしていないのに普通にガチャっと他人の家に上がり込んで遊んでいたり、週刊ジャンプを一緒に読んだり自転車を立ち漕ぎしては暗くなるまで田んぼや公園で遊び回ったりとても楽しく付き合っていました。あの幼馴染には今でも時々会いたくなります。

 

しかしそれ以外では、私の交友関係は広くなかったような気がします。

小学校での友達は多くなく、いつも特定の子とだけ付き合っていました。集団に入るとなんだか一歩引いたような、どうにも馴染むことが苦手だったような気がします。

小学3年生か4年生の頃の遠足。一番右が私。なんとか枠に収めてもらってる感満載の写真ですね。
小学6年生の時の遠足か何か(1992)。集団の中では端っこで一人だけ笑っていない写真が多いです。

雑感:おぉ〜!ずいぶん昔の写真なのに、久しぶりに見ても写っている全員の名前を覚えている自分にびっくり。みんな元気かなー。母が倒れた時に不本意にも自分が子供の頃の大量のアルバムを受け取ってしまって、だけど自宅には置くスペースがないので一気に電子化していた写真データより。

なぜ集団に馴染むことが苦手だったかというと、集団の中でどう振る舞えば良いのかが分からなかったという表現が適切かもしれません。

私はその場で、何を、どうして良いのかが全く分からなかったのです。

私は一人で好きなことをやって過ごすことが好きでした。だけど、誰かが楽しそうに何かをしているところに自分が入っていくことが出来ませんでした。『輪の中に入りたくない』という訳ではないのですが、『輪の中に入る方法が分からない』という感じでした。まるで大縄跳びで、回る大縄に入るタイミングをずっと伺っているような。そうして伺っているうちに、大縄跳び自体が終わってしまうような感じです。そうして時間が過ぎていきました。

『挨拶ができない』を乗り越えたきっかけ

人との関わりという点で言えば、近所の人に挨拶をすることも私はかなりの年齢になるまで出来ませんでした。

朝はおはよう。昼はこんにちは。

そう言うことは頭では分かってはいたけど、いざその場に直面すると頭が真っ白になり、不安な気持ちが渦巻いてしまって何も言えなくなりました。私なりの、パニックを起こしていたのかもしれません。

だけど『挨拶ができない』を乗り越えたきっかけは今も明確に覚えています。

小学何年生かのある朝、どうやら私の母がお向かいの奥さんに協力を願ったようで、私は登校時にその方に必ず挨拶をするように言われました。その日、挨拶をしないとそこを通ってはいけないと言われ、さらに母も一緒についてきました。

いつも朝に水撒きをしていたお向かいさん。私は、どれだけの時間をその人の前で立っていたかわかりません。数分、いや、数十分だったかもしれません。

『ほら、おはようございます、だよ』

何度母にそう促されても、私は何も言えずにうつむいて立っていたことを覚えています。分かってはいたけど、口から言葉が出ませんでした。頭が真っ白だったのです。

それが何日か続けられて、私は憂鬱な気持ちで過ごしました。だけどある日、私は前夜から意を決しておいて翌朝にようやく『…おはようございますと言いました。そうしたらお向かいの奥様は大きな笑顔で『はい、おはよう!いってらっしゃい!』と言ってくださいました。それを見ていた母も喜んでいた様子でした。

あぁ、挨拶をするって、こういうことなのか。

私の頭の中で、何かの回路が繋がったような気がしました。

翌日から、私は毎朝その方に挨拶をするようになりました。夕方にお見かけしても『こんにちは』『こんばんは』と普通の声で言えました。他の人にも言えるようになりました。

こうして私は『挨拶』のスキルを獲得しました。

小学校生活での困難

具体的ではない指示が理解できない

小学校の教室で。

私はやっぱりその場で、何を、どうして良いのかが全く分かりませんでした。

幼い頃から学習への興味関心はあったようです。母が言っていたのは、文字を読むのも書くのも早かったと。そして私は就学前の幼い時から漢字に大きな興味を示し、新聞をひらいては広告の裏とかの白い面に黙々と漢字を真似て書いていたと言っていました。就学してからも実際に、学校の学習には問題は感じませんでした。

一方で、私は“具体的ではない指示”が理解できませんでした。

『これをこういう手段でやってね』という指示には従えました。例えば『鏡をよく見て、自分の自画像を描きましょう』と言われれば出来ました。

しかし、『母の日にお母さんに贈る絵を描きましょう』と言われたら混乱しました。

<誰が、誰のお母さんに贈るのだろう。お母さんは絵が欲しいと言っているのだろうか。そうであれば何の絵が欲しいと言っているかも聞いているに違いない。だけど私はそれを聞かされていない。でもみんな聞かされていないのにみんなは描き始めているのはどうしてだ…?こっそり確認してきたのかな…?私が何かの宿題を忘れたから自分だけ知らないのかな…?>

そんな思考がグルグル回り、頭が真っ白になっていき、そのうちに手も動かず、体も動かなくなってしまいます。そのような時間、私は教室の机の上にある画用紙を見つめたまま、全く動かずに過ごしました。

作文なども苦手でした。事実や経験に基づく作文であれば書けましたが、そうでないものが苦手でした。嫌な思い出としてよく覚えているのは『中学生になったらどうしたいか』というような題の作文を高学年で書かされたことです。

私は、何も思い浮かびませんでした。中学生になれば何がどんなふうに今と違うかもわからないのに、書ける材料なんて見出せませんでした。どうしてみんなはそんなにスラスラと作文が書けるのか、私には理解ができませんでした。

だけど必ず提出しなくてはならないと言われ、放課後に残り、何日も書こうとしましたが書けませんでした。何日も何日もかけて、やっと絞り出したような、指定よりもずいぶん短い作文を私は書きました。

ずいぶん遅れて私はようやく作文を提出しました。当時、若い男性の担任教師は国語の専門教師でした。提出した時に、こう言われました。

『読んだけど、大西さんの作文だけイマイチなんだよな〜。だけど提出が遅いからもう直せないよ。』

 

とても悲しい気持ちでした。

だけど、『どこを、どんなふうに直せば良いのか今この場で教えてくれたら、私は15分以内にも修正することが出来るのに!』と思いました。だけど思っていることが口から出ませんでした。胸の中では今にも言いたい言葉がぐるぐるとどんよりと渦巻いているのに、どうしてもそれが口から出ず、そのうちに私はその“言いたいこと”に押しつぶされるような感覚になり、他のことは何も考えられなくなるのです。

その日、私は唇を噛んだまま、『もう帰って良いよ』と言われるまでずっと私はそこに立っていました。

その作文が、印刷されて冊子になって学校で配布されました。

それから、私はその担任の先生がなんだか苦手になりました。

自信がない

このように、私はみんなで一緒に楽しくニコニコするタイプの子ではありませんでした。自分から話すことはあまりないし、頭は回っても言いたいことが口から出ずに、喋ろうとするとモゴモゴしてしまいました。

言いたいことが言えないもどかしい時、または感情が一気に振れた時、私はチックの症状が強く出ました。私の症状は顔の右半分の筋肉だけが、目に見えるほど大きく痙攣してしまいます。向かい合った人は驚いた顔で痙攣部分を見ているし、自分でも顔が右だけビクビクとしていることがわかります。だけどどうしても止められません。今はもうありませんが、20代前半、大学を卒業する頃くらいまで時々チックの症状はありました。

ある時、誰かが言いました(←本当は言った人の顔と名前も覚えてる。謎に記憶に残っている自分が嫌だなぁ。忘れたら良いのに

『大西さんの顔が半分だけビクビクなっとる!身体障害者みたーーい!』

担任の先生は、『笑わないの!』と言って笑っていました。

私は机に突っ伏して、ずっと顔を押さえていました。

 

そんな自分に、私は自信というものは一つも持つことができませんでした。

加えて、私の父は私を『ブサイク』だといつも言っていました。また、『豚に似ている』とも言っていました。当時、山田花子さんというタレントが人気でした。(今思えば天真爛漫でとても可愛らしい方だと思うのですが、)私の父は『お前は笑うと特にそっくりだ。お前なんか嫁に貰いたいという人なんか絶対いないぞ、ハハハ。』と彼女がテレビに映るたび、いつもいつも私の顔を見て言いました。だから私は自分の顔が人に好ましいものではないと心の底から思っていて、特に人前で笑うことにものすごい抵抗がありました。写真も、苦手でした。

みんなと同じ感性で楽しめない

そんな自信の無い私は学校の授業での発言も基本的にはしないしできない、極めて目立たない子供だったと思います。

小学6年生になり、とても明るくて溌剌とした男性教諭が担任でした。担任教諭はよく冗談を言ってはクラス中を爆笑させていました。だけど私は、人前で笑うことがとても難しく感じました。面白い時はなるべく自分の笑顔を人に見られないように、机に突っ伏して顔を隠して笑いました。

また、私には何が面白いのかがわからない時もありました。教室がドッと沸くことはしょっちゅうで、そんな時には私はとても混乱しました。そんな時も私は腕を組んで机に突っ伏して目を閉じて、ことの成り行きを考えました。

<先生が、いまこういう流れでこう言った。そうしたらクラス中が笑っている。何か流行りのテレビ番組かなにかで放送されたことがある冗談だろうか。でも私はそれを知らないから面白く感じていないという可能性がある。昨日のテレビはうちは何の番組を見ていただろう。うちはずっとニュースがついているし、そのあとはお父さんがドクターマリオを一緒にやろうって言ったから見逃したんだ。お父さんに文句を言わなきゃ。それにあとで誰かに聞いてみて、そのテレビ番組を来週は見るようにしなくっちゃ。>

この時の私の思考回路はこんなの↑です。自分的には精一杯の考察をし、あらゆる可能性を検討しながら真剣に対応策を模索していたつもりでした。そうして私は机でうつ伏せになったまま、その理解不能な爆笑がまずはおさまることをじっと待って過ごしました。

それが、異質だったのだろうと思います。その年の保護者懇談会で母は『全体的に普通なんですが、何を考えているかわからないところがある』と先生に言われた、とかつて言っていました。通知表の所見欄も、小学生の間を通してあまり良いことは書かれませんでした。

 

頭の中で思っていることが、どうしても口から出てこない。

具体的ではない指示が理解できない。

集団の中で、みんなと同じ感性で楽しめない。

 

これが、私が子供の頃の困難だったなと思います。

案の定長くなったので😅、次回以降に続きます。

(シリーズみたいに続くかもしれません。興味がある人だけ読んでくださいね💦)

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コメント

  1. 椎名 より:

    とても勉強になります。
    言葉にならなくても、沢山考えて感じているってのを忘れないように接していかなきゃと改めて思うね。
    気持ちを引き出してあげる言葉がけや待てる余裕、わかっていても難しいけど親として大切なことだなと…
    家庭や学校、子供を取り巻く環境や人物が与える影響の大きさよね…

    続き、楽しみにしてます。
    私は子供の時のことほとんど覚えてないわ💨Naoさんの記憶力と分析力、素晴らしいね。

    • Naomi Dr.Nao より:

      コメントありがとうございます〜。熱を出しててお返事遅れた💦

      初めて知ったんだけど、特定の環境でものが言えなくなることを『場面緘黙症』っていうらしいの。このサイトを見てくれてる人から教えてもらって、なるほど、症例として名前がついたものだったのかと驚きました。
      私はたまたま乗り越えていけたけど、子供にはどうしようもないことなのでやっぱり周囲が気づいてサポートしていくことが大事だなと思ったよ。

      書けばわかることもたくさんあるね。また続きを書いてみます。

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