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#11 新型コロナウイルス感染疑い

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発達障害に気づくまで

みなさんこんにちは✨

今日も当サイトを見にきてくださり、ありがとうございます。

2020年の一斉休校をきっかけに、大きく調子を崩した我が家の息子。

4月下旬に受けた塾のテストは、結果は散々であることはもちろんのこと、その解答用紙には息子の異常な精神状態がありありと見えたように思いました。

息子から表情が消えました。食事も取れないし、自分自身の感情のコントロールがまったく効かなくなりました。

もう限界だろう。息子はどこか小児の精神科を受診するべきなのだ。GWを目前に、ようやく私はそう確信しました。

しかしその直後、一本の電話が我が家のそんな状態を押し崩し、ギリギリの息子の精神状態を決定的に崩れ落としてしまいました。

私たちは、新型コロナウイルス感染症の当事者になりました。

それが、息子に大きな大きなショックを与えたのです。

実母が倒れた

施設からの電話

2020年のゴールデンウィーク。

5月2日の午後、当時私の実母(息子の祖母)が入所し暮らしていた施設から一本の電話がありました。

『お母様が居室で朦朧としているところを発見しました。受け答えができない状態で救急車を呼びました。看護師の見立てによれば脳梗塞のようなものではないかということです。搬送先の病院まですぐにきてください。』

私は驚くと同時に、

『息子から目が離せないってのに、なんてこった』

と慌て、『次から次へと、なんなんだ…』とガックリと肩を落としました。

母は苦労してきたと思う

父はたぶん発達障害の人だった

私の実母と、小学生になる私(1987)

私の実母は、40代で父と離婚したのちに家を出て、介護の仕事をしながらずっと富山市内のアパートで一人暮らしをしていました。

私の父は、今思えば典型的な発達障害の人でした。

頭はいい人だったと思われますが、コミュニケーションに大きな問題を抱えていました。ものを0か100でしか見ることができないので曖昧な物事を受け入れられず、冗談が通じないしこだわりが強く曲げられない。そのため社会では多くの人とぶつかって、状況に対応できなくなると突如奇声を上げました。

今で言う”二次障害”も父にはあったのだろうと思います。

「学校が嫌いだったから」という理由で進学はしなかったのだそうです。”父の友達”という人も、私は見たことがありませんでした。父は10代から社会に出て勤めていましたが収入は少なくて、家は決して裕福とは言えませんでした。父は働き盛りの年齢で半ば解雇のようなかたちで退職し、その後はどうしていたのかよく分かりません。

父はなにかうまくいかないことを周りのせいにしていました。ことあるごとに『無能が大卒だからって偉そうに』と、自分の周りの人間がいかに頭が悪いかを何時間もかけて母や私に話しました。

だから、私の母はずっと正社員で働き続けてきました。

そんな母に、父は『女が外で働くことを認めてあげている』と言っていました。だから子供のことも家のこともちゃんとやれ、と。

あの時代に、母親である女性が働き続けることは今以上に大変なことであったと思います。しかも夫の理解も全く無い。

幼かった私と弟を父方の義両親に預けるたびに頭を下げ、それでも毎回いやみを言われ、母がそのいやみを聞き流すことが余計に目につくのか父方の祖母は私にもよく母の悪口を言いました(父方の祖父は常識的な良い人でした。しかし祖母には何を行っても無駄だという感じで関わらないようにしていたように見えました)。私は父方の祖母が好きではありませんでしたが、母が働くために、よく祖父母宅で母の帰りを待っていました。

私もよく父とは衝突した

私は成長するにしたがって「父の方ががおかしいのではないか!」という思いに至り、父と衝突するようになりました。

また、当時はまだ当たり前ではなかった『母親が働く家庭』において、父は母の適当にも見える家事の仕方が受け入れられなかったようでそのことをよく母に大声で注意をしていました。

「おいおいそれはないだろう」と私がそれに口を挟むと、言い返せなくなった父は顔を真っ赤にして暴れ私に手をあげたり、または奇声を上げて裸足のまま外に走って行ってしまったりしました。

父と私。自宅の前で(1990頃)

父は本当は優しい子煩悩な人だった、と母は言っていました。

当時は発達障害についての認知も少なくて、今思えばですが、父もきっと大きな生きづらさを抱えた人だったのだろうと思います。適切な支援を受けていれば、父の在り方も違ったのかもしれない。

だけど、母はそのような暮らしをしてきていて、苦労しただろうしきっと疲れていたと思います。

母は50代に入って間もなく、更年期障害に加えて日々のストレスから鬱病になったようでした。私も弟もすでに家から離れて自立しており、母と日頃は電話はしても、直接顔を合わせる機会はもう無くなっていました。

母の自殺未遂と閉鎖病棟への長期入院

昔話はもう少し続きます。

ある夜、”母の携帯電話”から私の携帯電話に連絡がありました。

自殺を図ったようだ。血だらけで倒れている。

意識のない母を偶然発見した人(母の友人らしい)が、最新の通話履歴にあったこととおそらく親族であろう登録名から推定し、私の電話番号に電話をしてきたものでした。

 

私は遠方におり、さらに息子を出産する予定日の直前だったためすぐに富山に向かうことはできませんでした。すぐに私の弟と、私の叔父(母の兄)に連絡して向かってもらい対応を任せました。弟は血だらけの現場に着いてショックを受け、しばらく立ち尽くしたと話していました。

母は、命は助かりましたが、それをきっかけに総合病院の精神科に入院することになりました。

その後も暴れたり、死にたいと言い続けて病院を脱出しようとしたりが続きました。

気丈で明るかった母は、痩せて表情が消え、すっかり変わってしまいました。

しばらくして、私が生まれたばかりの初孫(←息子)を母に見せようと面会に行ったその隙に、全員が新生児に注意が向いたまさにその隙をついて実際に逃走して行方不明になったこともありました。弟が警察に連絡し、担当医は近隣の駅の改札に情報を回して母を探しました。行方不明になった母を何台ものパトカーが探しに出ていく様子を、私は生まれたばかりの息子を抱えて何もできずにただ見ていて、夫に「いつ帰れるかわからない」と連絡を入れました。

その時は結局、母は自分が生まれ育った海沿いの小さな街の廃屋にいるところを保護されました。

母には目立つオレンジ色の上着を着せていましたが、発見時にはその上着を裏返し、裏地を表にして着ていました。だから駅の改札をすり抜けました。

母はその後すぐ富山県内で街から少し離れた精神疾患専門の病院へ転院し、そこで8年ほどもの間、長く閉鎖病棟の中で暮らしました。

私が東京に移ったあとに、母も東京の施設へ入所した

田舎の自然の中で管理された生活を送る母は、波はあれども徐々に明るく元気になっていきました。

病院から、退院の話もでるようになりました。病院に外出届を出し、病院から1人でタクシーで富山駅に向かって北陸新幹線に乗り、東京駅で待つ私のところに遊びにくることもできました。

孫が可愛いようで、母は特に私の息子を可愛がりました。

そこで私の弟が富山から広島県へに転勤になったことをきっかけに、

『富山県内にはもう頼れる身内がいなくなる。何かあった時に広島や東京から駆けつけることは難しくなるので、この機会に母には退院して東京のグループホームへ移ってもらおう』と話し合いました。

私たちは母に富山の病院から東京の病院へ転院してもらい、1年ほどそこで経過が落ち着くことを待ちながら東京都内の精神疾患を持つ人のグループホームを探し空きを待ち、母を豊島区内のグループホームに入所させてもらって、ようやくその暮らしにも慣れてきたところでした。

2020年5月2日。その豊島区内のグループホームから、「母が倒れた」と電話があったのです。

長くなりましたので、次回に続きます。

コメント

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