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続) 個性と教育環境のすり合わせ:“画一・一斉”から“個別化”への期待

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徒然思うこと

みなさんこんにちは✨

今日も当サイトを見にきてくださり、ありがとうございます✨

私たちが住む地域の小学校は、感染症の流行のため学校休業、夏休みの延長措置が決まりました。それでも今週は一応のオンライン授業が始まりました。

毎朝1時間目は、オンラインの授業です。来週からは、3時間目もやるようです。

今のところ我が家の息子はこれにすんなりと対応していますが、共働きのご家庭などで学童保育に行っている子は参加できていなかったり、低学年のお子さんなどは親御さんが付きっきりである必要があったりなど、まだまだ課題はあるようです。

教育はやはり市民社会の根幹をなすものです。現場はてんやわんやでしょうが、社会状況に関わらず教育の在り方に関してはどうか模索を続けて欲しいと感じました。

 

ってことで今日は先日に引き続き、息子の個性と教育環境について思うところを少し書きたいと思います。

小学校教諭をしている友達から紹介してもらって読んだ本がとても勉強になりました(↓↓)。

公教育は現在の画一的な一斉授業の方式から、学びの自由化・個別化に向けて構造転換する方向性が示されていることに私は大きな感銘を受けました。

わたし
わたし

息子には息子なりのやり方があるはずです。それを信じ、任せて、待って、支えてみようと思っています。

時代に合わせた公教育の構造転換への期待

“みんな同じ”は誰得じゃ?

前回の記事で、私は現在の日本の公教育のあり方が“みんな同じ”に偏りがちで、そのような教育を受けた人の中では『同調する』とか『空気を読む』ことが求められ得ること、さらにそれに合わせられない人側がどうしようもない(=解決不能な)類のストレスを抱えてしまうことに恐ろしさを感じる、と書きました。

思えば私にもそういう経験はあります。精一杯頑張ろうとしているところに足を引っ張るようなことをされたり心ないことを言われたり。おそらくですが、誰にもそのような経験があるのではないでしょうか。日本の諺:『出る杭は打たれる』という言葉もかなり異常な言葉です。本来は“打つ方”が恥ずかしいことだと諌められるべきであるのに諺にまでなって、まるで容認の表現が世代を超えて伝わるなんてありえない💢

 

そんな“みんな同じ”は結構ですが、一体誰の得になるんでしょうね?

このような風潮は、私としては一刻も早くやめて欲しいのですが、なかなか個人ではどうしようもないことなのかもしれません。

私の息子は、集団から微妙に浮いてしまうような子供です。“みんな同じ”には馴染みづらい子供なのです。

息子のような子は、いざとなれば“みんな同じ”から飛び出して、いっそ振り切ってみるのも一つの手だとは思います。だけどそれは息子(=他人)のことなので、親とはいえ、そんな決断はよほどの決定打がなければ困難です。結局は私も、まだ様子を見ながら、今も周りの環境に合わせようとしています。悩んでいます。

 

そんな折、たまたま友達から紹介してもらって読んだ本。

これはそんな現在までの公教育の問題点を指摘して、教育哲学と諸外国の成功例に添いながら公教育のダイナミックな構造転換を提唱するものでした。

私はこれを読み、とても大きな感銘を受けました。

教育のあり方がこうなってくれたら、息子はもっと生きやすくなるに違いない。そうしたら私だって、息子に必要な学びについて、もっと深く考えることができるだろう。

そう期待しました。

せっかくなので本書の内容を引用しつつ(←厳密に正確ではないかもしれません。ご興味がある方は読んでみてくださいね。)、この感想を記録しておこうと思います。

公教育の構造転換

学びの“個別化”へ

本書の冒頭において、まず今の日本の教育の在り方について問題提起がされました。

“高い学費を支払って私立校に行かせても、受験勉強ばかりを教えている”

“今の教育は子供を競争させて、優れた(利用しやすい)人材の選抜システムの面がある。子供の人間性が尊重されていないことが危惧される”

子供の良いところも苦手なところもありのままに受け入れて、この子らしく人間として豊かに育ててくれる場所はどこなのか?”

さらに日本の公教育への投資の小ささについても言及し、今なお黒板を使用して、授業は先生お手製の資料を黒板に貼り替えながら進められることさえ続いている。すなわちIT化も何もあったもんじゃない環境で、先生方は最小限の投資の中で、最大限の効率化を求められている状況を問題視しています。

根本的に、システムがあかんな…

なるほど。おっしゃる通り、これでは日本の教育は画一的な、一斉授業にしかなり得ない

 

教育哲学において、こんな言葉があるのだそうです。

“どの子にも平等な教育を与えたいのならば、全ての子供に不平等な教育をせよ”

 

子供の学びは個々に多様であり、そもそもが個別であるものを、日本は一斉教育で済ませているというのが現状か!?

特に興味深かったのは、教師をしている友達が教えてくれた、

教師の友達
教師の友達

研修で聞いた話によれば、

小学生については、宿題と学力の相関関係はほぼゼロ、という研究成果もあるようだ。(←そうなの?私も自分で調べてみます)つまり一斉に出される宿題はやっつけ仕事にしかなっていない。

だったら個別化すれば良い。やらなくたっていい、自分のペースで、自分のやり方でやればいい、そういう考えもあるかもね。

という話。

これについて、本書の中でも書かれていました。

すなわち現在の画一的な一斉教育というものは、“放っておいてもできる子に、言われなくてもできることをやらせているにすぎない”というのです。

面白いほどひどい言われようだが、大いに納得するのは何かしらの思い当たる節があるからか…

なんだかけちょんけちょんの言われ方で、公教育が気の毒にさえなりますね〜。だけど納得できる部分があるのは何故だろう。

 

これに対し、

いやいや、すんなり理解できる子供ばかりじゃない。繰り返しの練習が必要なんだよ。だから日々の宿題はとても大事だ。

そういう意見もあるでしょう。

でも、“みんな”がやる必要はないんじゃない?繰り返し練習して身に付く子は練習したら良いし、既に基礎を理解した子は応用問題へ進めば良いのにと思いませんか。

または、

まずは『型』が必要だ。『型』を示すことが教育だ。

そんな意見もあるでしょう。

でも、『型』って目的のためにあるべきでしょう?なんの意味があるのか子供自身が理解できない『型』は、従えば良いという思考停止を誘発するのではないかしら?

 

つまり教育のあり方は“個別化”へ向いてあるべきであり、“その子がどれだけ伸びたか”ということに対して前向きに評価がされていくことが望ましいということが本書の中に書かれていました。

事実、このような個別化教育の取り組みにおいては、点数の低かった子、支援が必要な子の伸びが特によく、自己効力感や自己肯定感もものすごく高まったという調査結果もあるようです。

そう考えるとやっぱり今の画一的な一斉教育では、放っておいても出来る子にも、支援が必要な子にも誰にも照準があっていないのだと思えます。いったいなんのための教育か?

 

もちろん対応するのは現場であるので、IT化とかそっちのけの投資しかされていない現場で多忙な先生方には『無茶言うなよ!』って話でしょう、今はまだ

だけどいずれ近い将来、個々に学び、しかし孤立せず、学校がそんな協働の場へとなって欲しいと願います。

“みんな同じ”なんて、本来はあり得ないことなんだよね。今のところはこのことをまず共通認識として持てたらいいのかなと思いました。

自分の考えを言える子に

先の記事で私は“みんな同じ”から派生して、『同調圧力』や『空気を読む』雰囲気が嫌だなぁと書きました。

しかしこれは画一的な一斉授業のシステムに加え、『正解は習うものである』という受け身の教育の賜物でもあると思います。

 

今の公教育において、教育を受ける側の裁量というのはものすごく小さいです。

つまり今の教育システムにおいて良く出来るというのは、

“あれしなさい、これしなさいと言われることに積極的に取り組むことだと思われている”

と書かれています。先生からの質問に、『正解は○○です!』そう答えられればOKだと。

 

私自身の経験ですが、大学生〜大学院生の始め頃、私は『自分の意見を言う』ことは本当に難しいなと感じました。研究者になるまでに、その点はかなり鍛えられたと思います。

例えば学会会場で。誰かの研究成果(=意見)を聞いて、それに質疑をするわけです。

だけど絶対一度は頭をよぎる、

『こんなこと聞いて、大丈夫かな?』

『こんなことも知らないのか、と思われないかな?』という想い。

だったら解ったふりをして、ありがたい表情なんかを取り繕って、みんなと一緒にそこに座っておいた方が無難ではないかと思ってしまうと思います。

 

『思ったままの意見を言う』のは、実はとても難しいことなのです。訓練しないと、とても出来るものではありません。

しかし日本のように、教師から正解を習うことによって育った人達が、しかもその中で優れた(利用しやすい)人材として選抜を勝ち抜いてきた人間のうちどれだけが、いったい『私はこう思います!』と言えるだろう?

本書においても言及されていました。

教師から正解を習う教育によって育ってきた人々が社会に出た時、「私はこう思います」と言える人間が少なくて、果たして社会は健全か?

本当は誰の目にも「黒」にしか見えないものに対して、周りにいる人、とりわけ権威や社会的地位のある人が「白」と言えば「まぁ白と答えておくのが無難かな」と考える人たちばかりの社会になったら、それはどれほど危険だろうか”

このあたりの記述にはいくつもハッとさせられる部分がありました。すごく大事。

余談ですが…昨今の政府を思い浮かべてしまいますね。

オリンピックに感染症対策。ヲイヲイ…と思う対応も多かったように思います。

 

私が印象的だったのはアレですよ。感染症の専門家が準備して発表した提言を、政治家が「自主的な研究の成果の発表だと受け止める」とかなんとか言ったこと。

あの対応は、悲しかった。

こんな対応がまかり通るのならば、この国で研究者を目指そうとする子供なんかは二度と出てくることはないだろう。国の持続的かつ有意義な発展のため、使命を一生懸命果たしたいと思う研究者はもう出ないだろう。

この国はもう終わりだな、とさえ私は思いました。

 

もしかしたらこういうものも、日本の公教育の賜物なのかもしれません。

“画一的な一斉授業”と“正解を伝える”教育の中では、そんな力は培われないし危険である。まずはそう気づくところまでを目指して行けたら良いのかな、と思いました。

日本の教育の良いところ

そんな日本の“みんな一緒”と”同調圧力”を生み出す公教育。

息子のことで悩んでいることも相まって、なんか悪し様に書き過ぎましたがもちろん良いところもたくさんあります。

何より識字率の高さ。社会が安定しており、高水準の教育が普及していることを実感します。(←明治時代に達成済み。)

それとやっぱり先生方が熱心なことだろうと思います。

一斉授業にはなるけれど、ついて来れない子供にはやっぱり手厚い。目をかけ手をかけ時間をかけ、とても丁寧に指導してくれていると思います。

以前に海外で生活したことのある友達に話を聞いた際、海外の学校は結構ほったらかしだよと言っていました。少ない海外経験ではありますが、私もなんかそんな気がするのも事実です。

 

熱心な先生に気にかけていただいたこと、息子にも経験があります。息子が3年生の時の担任教諭には、特に熱心に見ていただきました。

息子の日々の教室での様子をしょっちゅう私に知らせてくれて、『今日はこのようなことがあり、気にしているかもしれません。ご家庭での様子が心配で電話しました』と、夜の8時を過ぎても電話に付き合ってくださったりもしていただきました。

また、息子の良いところを認めてくれて、いつも励ましてくれていたようでした。3年生の時に初めて通知表で『良く出来る』をつけていただいたことを息子は喜び、とてもありがたいことだと感じました。

 

だけどこれもこの先生個人のご負担であり、システムとして出来上がっているわけではありません。あくまでたまたま熱心な先生に見ていただいただけだと思います。

 

気づけばなんか長々と少し愚痴っぽくがいてきましたが、教育の“個別化”に向けては既にそのような取り組みを開始している学校も増えてきているようです。

日本の教育の良い面はそのままに、さらなる構造変革を達成するようにあってほしい。

まもなく、動き始めるのではないでしょうか。心から期待をしています。

 

この記事を書いている時。なぜ日本の組織は失敗するのか、国や民族の考え方、習慣を変えるのは容易ではないという話で後輩に勧めてもらった本に興味を持っています(↓)。時間が取れたら読んでみようかなと思っています。

いい加減な計画を立てておきながら、いったん出来てしまったものは変えることを良しとしない日本人の姿が描かれているらしい。恐ろしいなぁ…本当に😅

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