みなさんこんにちは✨
今日は一昨日の記事の続きの話として、私が地方(富山)で経験したことを記録しておこうと思います。
私は↑の記事で、もともと“暗黙の了解”文化が根底にある日本においても、さらに一部の地域においては“ご挨拶言葉”という文化があるようだということを書きました。“ご挨拶言葉”とは、それは挨拶のように潤滑油としてのみ発せられる、中身を伴わない言葉のよう。
非常に難解ですね。
思い返せば、私がかつて経験したことも、間違いなくその“ご挨拶言葉”だと太鼓判をいただきました。今日はそんな具体例を見ていきたいと思います。
思ってないなら言わないで!って思っちゃいますよね💦だけどそんなご挨拶言葉も、その地域では重要なコミュニケーションのツールであるので尊重しなくてはなりません。
馴染めなければ、苦労するかもしれません。重要なことは、そこで自尊心を落とさないこと。居住地選びも環境選びです。
全ての経験を糧にして、一層広い視野を持つことこそが勉学に励む意義なのだろうと思いました。
文化の違いを受け入れる
潤滑油としての意味なし言葉
私は先日、当サイトを読んでくださったMさんからご感想のLINEをいただきまして、日本の中でもある地域においては“ご挨拶言葉”という文化が存在するという事実を知りました。
それは主に西日本あたりに存在し、
例えばそれは、別れ際に本音では特に遊びに来てほしくない程度の知人に対してさえも『また遊びに来てね』と言っちゃうような文化のようです。
私や息子は、言葉重視のコミュニケーションをしがちです。他人の言葉を(文脈によらず)そのまま受け取ってしまうことや、一方で相手にもそれを求めてしまうこともあったりして、きっと私たちは“暗黙の了解”文化のみならず、居住地次第であるが“ご挨拶言葉”文化に入った際には苦労をするかもしれないね、と、そんな話を伺いました。
その際、私はMさんに言われて思い出したことがありました。
西日本と書きましたが、この「今度遊びにきてね問題」についてインタビューしたのが、西日本住まいの友人達や九州の親戚達なので、他の地域でも同じことがきっとあると思います。富山はいかがでしたか?
そこで私はちょっと昔を想いました。そしたらね、ありました。たぶんこれも“ご挨拶言葉”なのだと思われました。困惑したし、悲しかった記憶があります。今日はそれを記録したいと思います。
富山の親戚に言われて戸惑ったこと
私が20代はじめ頃だったでしょうか。当時札幌で大学生をしていた私が親族の法事か何かで富山に帰省した時の話です。
私が育った家は親戚付き合いの薄い家であったので、その場にはほぼ初対面とも言える普段会わない親戚たちがたくさんいました。私はつつがなく行事に参加して、その後の会食で年配の親戚の中に座っていました。
そこで、普段は会わない親戚に、こんなことを話しかけてもらいました。
北海道は、ビールがそりゃあ美味しいんでしょう?
ええ、そうなんですよ。札幌は特に住みやすく、お酒も食べ物も美味しいです。そして私は、
北海道には、サッポロビールのなかでも北海道でしか買えない缶ビールがあるんですよ😊
と、話しました。これは時々物産展などでは見かけはするものの、道外では本当になかなか買えません。美味しいですよ😊道民達の普段用(←北海道ではコンビニで売ってます)としても、そして夏の贈答品としてもすっかり定番の人気のビール😊(↓)。
そんな話をしていると、その親戚が言いました。
へ〜!そりゃあ、飲んでみたいわ!
うん、是非機会があれば飲んで欲しいと想いました。そして学生とは言え既に大人であった私は親戚付き合いも大事だよねという思いから、心からこのように言いました。
今度、夏にお送りしますよ。
そりゃ、ありがたい!
そうして法事は終わりました。そして私は、その夏にその親戚宛にお中元としてそのビールをお送りしました。
私は、ずっと気をつけていました。私は、約束したのだから!とお中元の時期を忘れないよう前々からずっと気にしていて、そのために家庭教師のアルバイト代も使わないようによけておいて、百貨店から贈答用のものをお送りしました。するとそのビールが届いた頃、とても驚いた声でその親戚から電話があったのです。
ビールが届いた。冗談のつもりで言ったがに!
私は、とても驚きました。
もしかして、迷惑だった?
それとも私は、もしかしてとても非常識なことをした?
私は混乱しましたが、どうすればよかったのかは当時の私には分かりませんでした。むくむくと、これまでも“一般的”な振る舞いが苦手であると自覚していて多くの失敗を経験してきた私の引け目が顔を出します。とても困惑した気持ちでした。
電話を切って、私は落ち着いて論理的に考えようと試みました。
それでも確かに、『お送りしましょう』と私が言ったら『ありがたい』って言ってたよ。それも冗談だったのかしら?だったら『わざわざ送ってもらう必要はないよー』って言ってくれればよかったのに。どういうつもりの冗談なのか、裏の意味があったのか、私はそんなに非常識なことをしたのだろうか。
ビールは贈答用のセットだったので、送料も含めて数千円の出費でした。それは当時学生の私にとって、とても高価なものでした。それでも約束したのだからと私はアルバイト代をよけておいて、約束を果たせることと、きっと喜んでもらえる笑顔を想像して嬉しく思っていたのです。
とても悲しい気持ちでした。私は一体どうすればよかったのだろうと、ずっと長く思っていました。
すっかり忘れたつもりでしたが、私は今回、Mさんから“ご挨拶言葉”という話を聞いて、私はそんなことをふと思い出しました。
それが、まさにご挨拶言葉である
今回、Mさんに
富山はいかがでしたか?
と尋ねられたことで、私はこのお中元ビール事件について思い出したことをお伝えしました。するとやっぱり、それもまた典型的なご挨拶言葉であると太鼓判(笑)をいただきました。
そうです、Naomiさんの御親戚の方が仰っていた「今度飲んでみたい」こそ!まさに✨ご挨拶言葉です~( ̄^ ̄)💨💨💨
なるほどね。そう言われると、あれはその場限りの意味なし言葉だったのだと分かれば、一連の流れも理解できる気もします(←真に理解はできませんが)。
ちなみに、こういう話もあるようですよ。
父と母が結婚する際の両家の顔合わせの時の話です。
母方の祖母(バリバリの九州人)が、父方の祖母(神奈川県民)に、
「そちらのお宅は農家と伺いました、新鮮な野菜をいつも食べられるなんて羨ましい。私も皆さんが作ったお野菜を食べてみたいわ~!」と、それはそれは情感込めて言ったそうです。
当然、野菜を食べたいんだなと思いますよね。それで、父方の祖母は畑で取れた野菜をすぐ九州に送ったそうなんです。
そしたら、祖母から母に「ちょっと、、、どーなってんの?なんか野菜が届いたんだけど(?_?)一体どーゆーこと?」と困惑した連絡が来たとか。
母は祖母に「関東にはご挨拶言葉はない。そこを気をつけて話をするように。」と丁寧に説明したと言っていました。
すると母方の祖母も「ご挨拶言葉がないって?どーゆーこと?」と、それはそれでカルチャーショックだったそうです。
ほんと、日本て狭いようで広いですよね…🤭。
受け入れた上で、より広い視野を持つ
さて、しばらくそんなご挨拶言葉について考えてきましたが、これを読まれた皆様のお住まいの地域、ご出身の地域においてはいかがでしょうか?
同様の言い回しが富山県でも見られたことから、西日本〜ある程度広い地域で見られるのかなとも思っていますがどうでしょう。印象的な事例がありましたら、参考にさせていただきたいのでお知らせいただけると嬉しいです。
だけどさ。馴染めない側も苦労するけど、視点を変えてみましょうか。こういう言い回しをする人たちって本当に通じ合えているのか?と心配になっちゃう気持ちもありますね。
だって、その人たちの間においては、『夏に美味しいビールを送りますよ』と言って送らないのが正解なわけです。『お手製の野菜をぜひとも食べてみたい』と言われながらも聞き流すのが正解です。なんじゃそりゃ!?大丈夫なの?って気がしちゃうのは私だけでしょうか。
でも、大丈夫なんでしょうね…。だって、そのようなご挨拶言葉=その場限りの意味なし言葉なのですから。我々は、世の中にはそのような言葉があると知っておけば十分です。
感情も、付いていかないのではないかしら。
『良い時計してますなぁ』=『話が長い』のエピソードについても、他所から見れば理解は困難ではありますが、仮にもし、本当に素敵な時計をされていて心から時計を褒めたい時には一体どんなふうに言うのだろうと誠に他人事ながら私はとても心配です。反対に、相手から自分の時計を褒められた時にも素直に喜べないとか、そんなことも起こりそうでお気の毒にさえ感じます。
さらによく聞く『お客様にお茶漬けを提供しようとする』=『帰ってほしい』というものも、我が家のお茶漬けが絶品なので大好きな人に是非とも食べてもらいたい場合はどうするのだろうと心配にもなってきます、笑。めちゃくちゃ美味しいのに来客に自信を持って振る舞えないって、却って可哀想なのではないかしら。
私はそんな、“ご挨拶言葉”の今後の生存も心配です😅
だけど全て、時代と共に変わっていくのかもしれませんね。
今のご時世、生まれ育ったコミュニティの中だけで生きていく子供は少ないはずです。さらに今は地方都市にも外国の方がたくさんお住まいになり、非言語のコミュニケーションはどんどん出番が減っています。文化は尊重されながら、変わっていかざるを得ないのです。
もしくはね、文化の問題じゃなくて、世代の問題かもしれませんね。
私の祖母世代と私自身の世代とでさえ、生活圏はすでに大きく違っています。私の祖母は、1人で電車に乗れないと嘆き(←子供の頃の私は祖母が電車に乗る気がないだけだと思っていたけど、違うのかもしれませんね)、その土地だけで生きた人だったと思います。
だけど私も、そして私の息子もそんな生き方はしないのです。
そういえば私は以前の記事でこんなことを書いていました(↓)。それはアフリカに滞在していた時のことを思い出し、自分はとてもじゃないが“スマホを持ったアフリカ人”に勝てる気がしないと敗北感のような衝撃を受けたこと。
もちろんね、アフリカ人に絶対に勝たなきゃいけないわけではありません。とは言え息子らの世代は確実に、文化の違いを前提とした多くの人と肩を並べて力を合わせていかなくてはなりません。
世界に伍して動き、未来を切り拓く。
私たちはそんな時代に、すでに突入しています。
私はかつて、親戚にビールを贈ったことが余計なお世話だったのだろうかと傷つきました。だけどそれはそれと割り切って、私は私のやりたいようにやったのだからと満足したと捉えるくらいで良いのかなって思えるようになりました。
難しいけれどそれも一つの文化として尊重しつつ、大事なことは全ての人が自分なりに力をつけて、自分の周囲だけが世界の全てではない、未来は自分の思う通りになるのだと気づくことだろうと思います。
コメント
そのまま受け取ってしまうって難儀だねぇ…
ご挨拶言葉とか社交辞令とか、褒めるも含め手軽な感じで考えていたけれど深く考えると不思議ね。
今でいうと、かわいいー!とかすごーい!!なんていう言葉もその一種なのかな。若者に限らないけど、とりあえずの相槌とかで気軽に使うよね。
「具体的にどこがすごかった??」なんて突っ込まない限り会話の潤滑油。すごいね!なんて感嘆符のような言葉はたくさんありそう。
いいじゃん私もそれ欲しい!
新作じゃん買いたーい!
うちもやりたーい!
いいなぁ私も髪切ろうかなー!
とか感嘆符。
私も福岡出身だからこういう文化で育ったんだと思うな。
私が本音だと理解してもらいたいときは、「具体的に誘ってるから社交辞令じゃないからね!マジで誘うよ♪」とか重ねて説明するなあ。
本気で欲しいと思って「食べたい!」と伝えた場合は「お金払うから手配お願いできる?」とか踏み込んでいくから、言われたときにさらっとその場で終わった会話なら社交辞令ね、って解釈で今の言葉は流していいなって判断するかな。(Naoさんは重ねて聞いたようだけれども…すんごい情感を込められたら本気にしちゃうかもだけど…年配の人ほど演技派な印象w)
相手に手間(お金とか)をかけさせるようなお願いを、さらっと一言で済ませるわけないし、本気じゃないよね、と考えるのが思考の土台かなぁ。
あとちょと脱線するけど、「食べたい」と社交辞令で言われた場合に、あえて真に受けて手配してその人との繋がりを作るきっかけにするとかもありえるなぁ。
相手はびっくりするだろうけど、お礼の連絡をくれるだろうからその時に食事に誘うチャンスが生まれるかも!とか^^
地元の特産品を売り込みたいときとか、言葉尻をとらえて送り付けて、まず食べてみたほしい!ってきっかけにしてもいいね。気に入る入らないも、食べてもらうことが全ての第一歩だよね。相手が影響力のある人なら、Twitterで美味しよってつぶやいてもらったら良い意味で炎上してくれそう。
このように、自分にとって相手が繋がりを持ちたい人だった場合は社交辞令を利用する、ってのもありかもね。ちょっとビジネスライクな状況とかかな?あえて厚顔無恥に!野心的に!ツールとして使う!
友達なら素直に遊ぼうって誘えるだろうけどね。
文化として根付いたにはそれなりの歴史と背景があるだろうね。
京都言葉も今と昔とは雅の価値観が違うからねぇ。
和歌とか、解釈で背景説明されないと全く読み取れない恋文とかあるじゃん笑
うちわにしかわからない背景こそが文化かなぁ。
だからこそグローバルに対応するにはわかりやすさが大事よね。
脱線しまくってますが!
意見として、悩まされるくらいなら、相手に本気か社交辞令か聞いちゃえばいいんじゃないかな!
または具体的に住所聞いちゃうとか、何人家族ですか何本送りましょうかとか本気度をこちらが出すと相手は焦ってその場で冗談だよって言ってきそうw
年配の人ほど演技派、笑。ウケる。だけどそうかも😂コメントありがとう😊
>相手に手間(お金とか)をかけさせるようなお願いを、さらっと一言で済ませるわけないし、本気じゃないよね、と考えるのが思考の土台
なるほどね。『このような場合は“手間やお金がかかるような依頼”かどうかに着目することで対処の仕方が変わるのです』、とあらかじめ教わっておけば対応できるかもと思いました。だけど、初見でこれはやっぱりとても難しい🤣
ふふふ😎ちなみに感嘆符としての『すごいですね』は、私も20代半ば頃には習得しました。今もそんな感嘆符を繰り出す時には頭脳フル回転で結構エネルギーを使いますが、(自分では)なんとかなっていると思っています(←別の考え事をしていたり二日酔いとかの弱ってる時は難しい😅)。
確かに難しい文化ではあるのですが、今の私は、こういうことで迷うことがあれば例えばシーナさんに相談すればアドバイスをもらって対応可能になるし大丈夫って思えています。私1人では難しくても、多様な視点を持てる仲間の力を借りて多角的に物事に当たることは何事においても大事です。そんな頼れる人と繋がりを得られていることはありがたいし、時には私も誰かの力になれることがあるかもしれない。個人を超えて、周辺全部の総合力で物事にあたることも重要なグローバルスキルかなって思います😊
向き不向き!長所短所!得意な人に助けてもらうってのは大事よね。私もNaoさんの得意分野でたくさん助けてもらってます(^o^)
〉頭脳フル回転で結構エネルギーを使います
この辺りは見えないからこそ汲んであげられにくいところだね…
私にとっては感嘆符も社交辞令もおべっかも簡単に口から出せるもの、とどうしても思って見過ごしてしまう。
意識せず自然に対応していると思ってるけど、深掘りしてみると判断基準は持っててそれに照らして行動してるものなんだろうね。
例えば子供の時に、ロールプレイ的に、可能な限りパターンを網羅して覚え込ませたら楽になるもの?
物事に別の視点をもたらしてくれるものこそがニューロダイバーシティの本態なのだと思います。私とシーナさんでも既に十分ニューロダイバーシティは構成できている気がするね〜👍
私は感嘆符一つ発するにもエネルギーを使うけど、他の人はそうではない。そういうことを知ることも当事者研究の一つでしょうね。当事者研究は少数派にのみ有効ではなく、多数派と言われる定型発達の人も当事者研究をして自分の取説を見直してみるとわかることがあるのだろうと思います😊
今の社会システムは多数派(定型発達の人)に寄って出来上がっているよね。果たして少数派が絶対にそれに合わせなければならないのかどうかは今の私にはわからないけど、少数派の人が簡単に察知することができないものがあることを自覚し、パターンで覚えて知的に推論して補うことは良い戦略だとは思います。
ただし、それはその必要性を本人が自覚しないと効果は出ないと思う。納得しないと身にならないから。火曜の朝に『でこぼこポン』という番組を見ましたが、それは視覚情報を活用してTPOに即した対応をすると“自分も嬉しい”という納得を得させていくような手法を取ってました。お互いにwin-winになるのだと気づかせることがまず大事なのかな〜。
お!見てみたいヽ(^o^)
発達障害とかへの理解を進める番組が増えてきてるの素晴らしいね。
困ってる側がこんなところが困ってます‼︎って教えてくれると、そうなんだ!に繋がってみんなが変わっていけるだろうね。
本人の困りごとを解決する番組なのか、周りの理解を深めて手助けするスキルを付けるような番組なのか。両方欲しいよね。
私は障害のある息子を理解したいって強力なモチベーションがあるから接し方を勉強したり、定型・非定型の違いを知りたいと思うけど、
身近にそういう存在がいない定型多数派の人が知るきっかけになっていくよね。
本当に、Eテレでこのような番組が毎週に放送されることが素晴らしいね。社会はゆっくりだけど確実に変化しているのだと感じます。この番組ができたことで子供の中でも『凹凸があるのは当たり前』という意識が浸透してほしいと思います。それが一層、個々に違って当たり前、のパラダイムシフトを後押しするのだと思えてくるね😊
毎週火曜にやってるよ。番組を見れたらまた感想大会などやりましょう👍