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続) ”知らない”という不利

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成人ギフテッド母の成長記録

みなさんこんにちは✨

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先週末に読んだ『下剋上受験』

とっても面白く、一気に読ませていただきました。

これを読んで、私は”知らない”ということが如何に不利かという自身の経験を思い出しました(↓本記事は前記事の続きです。前記事はこちら)。

地方に生まれ、大学や高等教育ということに無縁の家庭で育った場合、高いレベルの教育を受けることの価値そのものが分からないのです。知らないものに挑戦することはできません。それはとても残念なことだと思うのです。

都市圏と地方には”教育を受ける機会の格差”が存在する

”教育格差”は貧富の差によるものか

”教育格差”という言葉では、この話題が思い浮かびます。

『東大生が育った家庭の過半数が、比較的裕福と言われる世帯である』

『親の年収は子供の学歴に影響する』

 

まぁそうだろうなと思います。

今、私は息子を中学受験塾に通わせてみて、その塾代はとてもではありませんがある程度の余裕がないと払えません。

このように潤沢な教育費をかけて育った子の一部が、そのまま東大生になるのでしょう。

親の年収が高い→子供の学力が高い。この方向性に口を挟む余地はありません。

 

一方、近年では子供の貧困が大きく問題視されており、貧困を理由に子供が教育や社会経験の機会を失ってしまうこと、その結果として学力が向上せずに育つことが言われます。

子供の貧困は問題ですが、その対策の立案は一旦専門家にお任せし、

ここで私は『地方に生まれたら、貧富の差に関わらず、高等教育に触れる機会に恵まれない』ことについて考えたいと思います。

高等教育を受ける機会の不平等

昨日の投稿でも書きましたが、『下剋上受験』の父娘はそれでも都市圏に住んでおり、知ろうと思ったその瞬間に”その世界”が視野に入りうることは大きなアドバンテージだったと思うのです。

しかし地方ではこれがなかなか難しい。

地方では、裕福な家庭であろうとも、”高等教育を受けると何が良いのか”を知る機会は限られます。

 

地方では、高等教育を受けなくても、生まれ育った土地で親がくれた土地に家を建てて十分幸せに暮らしている人がいます。

性別の差もあるでしょう。

私が父や親戚に言われた『女が大学に行って何様になるつもりだ!』という言葉は典型です。

私の父は自分が社会でうまく振る舞えないことを学歴の所為にしていたフシがあり、ことあるごとに『大卒の無能が偉そうに』とこぼしていたにも関わらず、どうして自分の子供が大学に行くことをそうまで貶すのかと不思議です。(↓ご参照ください)

そこまで言わなかったとしてもですよ。

「女の子は県外に出したくない」「女の子なんだからいずれ戻ってきて地元で結婚して欲しい」と思うのみならずそう仕向ける親が一定数は存在します。

地方では、そんな女の子が令和の今もいるはずです。

優秀な頭脳を持っているのに、「県外に出したくない」という親の勝手な言い分で教育機会を奪われている女性が必ずいます。

男性ならば、家を継がせるという思いがあるでしょう。

私には弟がおりますが、弟は生まれた時から親族一同から『”ご”長男』と呼ばれ、大切に大切にされました。

私が生まれた時は『なんだ女か』と親戚一同は見舞いにも来なかったのに弟が生まれた途端に『よくやった!』と言われたと、かつて元気だった母が笑い話のような納得できないような曖昧な表情で言っていました。

いずれ世代交代とともになくなっていくとは思いますが、田舎には、そんな男尊女卑がまだ存在することが現実です。

(それでも私の家なんて、父は会社員でしかも発達障害でうまくやれずその職も維持できていなかったのに、一体何を継がせる気やったんや?と私は密かに思いますけどね…。)

 

そのような地方の環境においては、子供は家庭の経済状況にかかわらず、”高等教育を受けると何が良いのか”を知る機会はないのです。

地方に生まれた高学力の子の進学先は、せめてもその都道府県に1つずつ設置された国立大学に絞られて、その土地でずっと暮らしていくことになるのです。

”地方の神童”という存在

北海道大学に進学して

北海道大学に進学し、私の世界はパッと拓けました。

津々浦々から集まった、わりと優秀な同世代が同級生です。

悪印象を承知で正直に書きますが、私は18歳まで、自分より頭の良い大人は(高校の恩師を除いて)存在しないと本気で思っていました。そんな狭い世界で育ちました。

北海道大学理学部本館。いい趣の建物でした。

だけど大学に来てみれば、『こいつにゃ敵わねえ!』と圧倒される同級生がゴロゴロ居て、私はその度に衝撃を受けました。

幸いにも友人や先輩後輩に恵まれ、私は細々と勉強をしながら飲み会やビリヤードに精を出し、充実した学生生活を送りました。

富山を出てきて、本当によかった。

心からそう思いました。

時々祖母や親戚から心ない手紙や電話(人でなし、お父さんに今までに掛かったお金を返しなさいなど)が続きましたが、私の人生はもう富山には関係無いのだと思うことができました。

地方の神童さえも教育機会を得られていない

北海道大学は総合大学で、しかもほぼ全ての学部が1箇所のキャンパス内に収められている点で国内で唯一の大学です(水産学部は函館ですが)。

そこでは学部を超えて多くの同級生、先輩後輩に出会う機会がありました。

都市圏の私立中高一貫校から来た人が半数程度だった印象です。麻布、浅野、清光などの名門を出たという友達も何人もいました。

だけど、中にはやっぱり居るんです。

そこで私は初めて”地方の神童”という言葉を知りました。

 

”道北のアスパラ農家の長男坊”や”女満別の酪農家の長男坊”という北大生(←酪農家の方は同級生で仲が良かったです。小遣いは”仔牛”で貰い、育てて売って現金化するのが常だそうです😲)

”北海道の無医地区という僻地”で育った北大医学部生、

島に2基しか信号機が無い(←「大人になって街に出た時に信号機の見方が分からないと困るという教育目的で設置されてた説有り」と聞きました)という離島から来た看護学生、

そして親に”道外には絶対に出さない”と言われて北海道大学に進学した、まさに一を聞いて十を知る女の子。

 

彼ら/彼女らは、もちろん塾にも行ってません。

地元の公立高校と家での自主学習のみにおいて北海道大学を受験して合格し、単身で札幌にやってきた。

しかもめちゃくちゃ頭がいい。

 

私はそんな人たちに出会い驚きました。頭の構造がどうなっているのか見たかった。

世の中にはすごい人がいるもんだなーと思いつつ、

『だけど良かった、彼ら/彼女らは北海道大学に来れたのだから安泰だ

私は当時は何も分からずに、そう満足していたことを思い出します。

 

だけどそうじゃない。

今ならもっとみんなに聞いてもらいたい、考えてもらいたいと思っています。

札幌もやっぱり地方都市に違いない。

”札幌”と”東京をはじめとする都市圏”の間には、まだ大きな機会格差が存在するのが実際です。

東京大学の医学生の将来展望に驚いた

私は大学院で生命科学を学び、”癌”と”感染症”領域における専門知識と研究手法を身につけました。

博士課程を修了してからはそのまま北海道大学内に教員として残り研究を続けましたが、師事した教授が東京大学医学部に異動したことを機に、私は短い間でしたが東京大学の医学生と接する機会を得ました。

 

なるほど。東大理IIIの学生さんはこんな感じか。

小綺麗だし、常識的な良い人だ。その上みんなあたまいいんだろうな〜。

なんて呑気に思っていましたが、私は彼らの情報網、発想力や将来展望には大いに驚かされることになりました。

 

私は東京大学滞在中に聞いた1人の話が忘れられません。

『僕は理IIIを卒業したらまずはゴールドマン・サックスのニューヨーク社に勤めてみるつもりです

そう言った、20代前半の男性がいることに私は大きな衝撃を受けました。

 

うまくかけませんが、これが私が”地方”と”都市”の差を明確に認識した最初の機会だったと思います。

 

富山の山がちな土地に生まれて大学や高等教育と無縁の家庭で育った私は、ニューヨークに出てグローバルな金融機関に勤める自分を想像したことがありませんでした。

その志向や着想自体が異世界だと感じ、圧倒されたのです。そして不思議でした。

そんな未来があるなんて、誰が教えてくれたのか。

自分で着想したのだとしたら、どんな社会経験がそのきっかけになったのか。

 

私は、自分が北海道大学に進学することができて本当に良かったと思っています。

富山の片田舎の裕福でない家に生まれた女の子が送るには、十分自由で闊達な人生です。とても満足しています。

だけどこの時、心から『羨ましいし、悔しい』と思いました。

悔しさの本態は、どうして私には『北海道大学も良いけれど、東京大学に行けば、きっと世界はもっと広い』と言ってくれる大人が近くにいなかったのか、という思いでした。

高いレベルの教育を受けることの価値はそこにある。可能性がどこまでも広がっていくことなんだよ。

そう言ってくれる人は、私の周りには居ませんでした。

 

もちろん学歴が全てではありません。

だけど、確実にチャンスを増やすと思います。それが教育の価値なのだと思います。

 

私は研究者になり、東京大学をはじめとした都市圏の種々の学校を卒業した友達ができました。

アジアで起業する若者を総括的に支援するために弁護士になったという人の視野の広さに驚きました。

海外にも度々行きました。

カリフォルニアのバークレー校で知り合った17歳の男の子は『私はヘリコプターの制御工学を革新させるためにこのような考えを持っている』と極めて熱心な自己紹介をされました。17歳の男性がこんなに明確な将来の目標を持っている。それを支える仲間も既に居て起業の準備を始めている。

こんなに明確な目標とともに10代を過ごせることの羨ましさ。そう生きる未来が果たして自分にあったのだろうか?と思いました。

 

そしてふと、「北海道大学の学生はやっぱりどうしてもゴールドマン・サックスのニューヨーク本社に就職することは思わないだろうな。北大からそこにレールはない。」

そう思った時、やはり地方と都市の”機会の格差”を感じることになりました。

もしも知っていたら

私は東京大学を目指したと思う

私が子供の時、いや、高校生の半ば頃までに誰かが

『東大を目指すにはそれだけの価値がある』と教えてくれていたら、もしくはそう発想する経験をしたら、

私はきっと東京大学を目指したと思うのです。

大人になり、少し広い世界を見て、東京大学で若い頃を過ごしてみたかったかった、と心から思います。

あの時もう少し早くから目標を持って勉強したら、きっと届いたのではないだろうか。

 

もう一つ言及しなければならないことは、地方出身の子が”上京する”ということには、都市圏の人にはなかなか理解し得ない精神的な大きな大きな高い壁が存在します。

だけどそれを乗り越えようとするくらい高等教育に価値があることを知っていたら、私は一歩踏み出したのではないだろうかと思うのです。

そしてその先の未来を描くだけの情報を持てたとしたら、世界はどんなに広かっただろうと思います。

 

北海道大学で出会った何名かの”地方の神童”たちを想います。

彼ら/彼女らがもしも都市圏で生まれ育ち、相応の教育機会を得て目標を持てるだけの情報に接していたら、彼ら/彼女らは一体どれほど大きな社会貢献をしただろうと思うのです。

だけど”地方の神童”たちは情報不足と地元志向の親により、例えば北大を卒業して市役所に勤めて暮らすことが幸せであると思い込み機会を逃してそれきりです。

 

『選択肢が狭まるのは可哀想だから、息子にはとりあえず中学受験はさせますね。』と京大卒の医師が言っていた。

本当に、仰る通りの真実です。

 

だけど地方で育つとその”選択肢”の存在そのものを知りません。

その先に広がる世界に価値を感じない・見出せないのです。関係ない、意味がないとさえ思うでしょう。

知らないことは目指せない。挑戦できるわけがないのです。

きっと私にも選択肢はあったのに、子供の頃の私にはそれがあまり見えなかった。

選択肢を可視化する作業が勉強と教育機会です。『下剋上受験』を読んで、それを強く思い出しました。

 

私が『下剋上受験』を読んで感じた都市圏と地方の教育機会の不平等。

根は深いと思います。

みなさんはどんな感想を持たれるでしょうか。一読をお勧めします。

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