みなさんこんにちは✨今日はちょっと雑感を少し。
英語の諺で、こんな言葉がありますね。
The apple never falls far from the tree.
そのままの意味では、りんごの実は木からそれほど遠いところには落ちない、つまりこの諺は“子供は親に似るものだ”というたとえです。
日本でも、似たような意味のことざわだったり慣用句は多いようにも思います。“蛙の子は蛙”とかいうし、“血は争えない”とも言うかもしれない。だけどなんだか日本でいうところの諺では悪い意味でのニュアンスの方が高いかも?これらはどうも“親の顔が見てみたいわ!”という呆れに近い心情がいくらも入っていそうな印象です🤣
さておき、私がこの言葉を目にしたのは下記の書籍を読み返していた時でした。
リンゴの諺は、この書籍の序章の部分に紹介されます。
私が今これを読み返している理由は、少し前にもチラリとだけ書きましたが、私はこの春より東京大学大学院ギフテッド創成寄付講座における研究の一環としてのSENGモデル保護者ディスカッションプログラムに被験者の一人として参加させていただいておりまして(SENG:Supporting Emotional Needs of Gifted)、そのプログラムがこちらの書籍に沿って進むように設計されているためです。
つまり予習ってやつですね。私たちは毎週指定された章に目を通してから自身の実際の経験に基づく意見をまとめてプログラムに参加します。
リンゴ付近のの書籍の記述はこんな感じ(↓)。
本書を手にとっている親の多くが、かつては自分自身がギフティッド児だっただろうし、以降の章で取り上げられている問題のいくつかを同様に経験していたのではないだろうか。本書を読み進める中で、「ああ、私が子どもだった頃に、こういうふうにしていてくれていたらなぁ(気がついていてくれたらなぁ)!」と内心叫ぶことになるかもしれない。
わが子がギフティッドかもしれないと思ったら: 問題解決と飛躍のための実践的ガイド 序章より抜粋
そう。りんごの実は木からそれほど遠いところには落ちません。
これは私自身もそうですが、当サイトを介して知り合ったたくさんの方々とのお話しの中でも『あるある』なんだといつも強く感じるところです。
子が子なら、親も親なの。
思い返せば私自身も幼い頃は今の私の息子と同様、自身の特性、ギフテッドネスに起因する困難を有していたのかなぁと思います。思い当たる節はいくつもあります。
もちろん私には今私の娘が対応している“場面緘黙症”もあったから、周囲の大人からは私自身は極めておとなしい目立たない子供に見えていたとは思います。
そんな色々な方とお話ししながら私がいつも思うことは、
まず、話す速さが異常に早い、とかもそう、笑。
まるで話は5倍速。私も割とお話好きで一般的にはもしかしするとよく喋る方なのかもしれないですが、なんだかその比じゃないくらい、まさにマシンガンのようにお話される人もいます。そんな話の展開も、いつもいつも超早い!(←褒めてます🤣)。
あと、お考えが超深いとかもそう。一体いくつ“目”があるのかと視点と視野の多さと広さに驚かされることも多いです。
また、こういう人も何人もいます。ちょっと普通には成しえないような、なんだかものすごい圧倒的な経歴をお持ちであるのにやりたいことしかやれないからと今は全然違うことをしているとかね(←分かる〜。もちろん褒めてます👍)。
過集中と没入型の困難(?)などは非常によく聞かれます。そんで後でドッと疲れが来ちゃうとか(←めちゃくちゃ分かる!!!)。
私が今参加させてもらっている、東京大学で行われている保護者のディスカッションプログラムで知り合う方々からも、もちろんケースによってはお子さんはママではなくご主人の方にそっくりであるとか、そういう話も聞くのですが、それでもやはり私の感想は同じです。
子が子であるなら、親も親。
だけど私が接する多くはママなので、女性はある程度の“擬態”ができるケースがより多くあるとも聞いています。そうして特に女性はなんとかかんとか周囲に適応しつつ大人になってきた方々も多いだろうと思われますが、それでも本質的な部分はやはり同じだろうといつもふと感じています。
それをしっかり鑑みても、さらに面白いと思うこともありますね。
これは私もそうなのですが、本当に、どこのママもいつもいつもお子さんのことで手を焼かされていることが面白い、笑。
自分もかつてはギフテッド児だったくせに🤣
子供は足元のリンゴなのに🤣
なぜ我々は自分の足元に落ちたリンゴを見ては、『意味がわからん!』『理解不能!』と頭を抱える運命なのか🤣
連鎖でしょうか。宿命でしょうか。なんだか笑えてくるようです🤣
そういうものだよ、仕方ない。だって“出どころ”は同じだし。そうリンゴを見て受け入れて、真正面から取り扱いを考えていくしかないのだろうなと今の私は思っています。
少し話は変わりますが、時々ふと当サイトを読んでくださる方々から言われます。
色々あれども変わっていく私の子どもたちへの私の対応を振り返り、私のやり方が凄いのだ、と。
凄い、という表現は適当だろうか?
渦中はもちろん大変でした。しかし振り返ってみれば私の息子の特性炸裂も不登校も、娘の場面緘黙症に関しても我が家はおそらくとても良い早いペースで順調にことが進んでいると思います。
またいずれ順を追って書きますが、娘は先日ついに通っていた療育も、ずっと診ていただいていた児童精神科にも『もう卒業して良いですよ』と宣言されて次のステップへと移りました。
娘ちゃんは本当に強くなりました。ここに来る時間を、もっと他のことに使ってみてはどうですか?もちろん私たちはどんな時も心で繋がっていますから、いつでもまた会えますよ♪
場面緘黙は長い時間がかかることが多いですが、約1年間という短い時間でここまで大きく変わってきたのは僕としても記録的とも言えるでしょう。
確かに娘は変わりました。最近では会う人の多くに『変わったね』『明るくなったね』『こんなに可愛い笑顔が見られて嬉しいよ』と驚かれる方が多いのです。保育園でも不自由は少なくなったよう。たとえ自宅外の電車の中でも今の彼女は全く普通の声量で家族と活発に話をします。慣れた人なら家族以外の方にでも物おじせずに話す場面も増えています。
だけど彼女は、たった1年前にはコミュニケーションの困難は明らかに臨床域だと診断を受け、日常生活や社会生活にも明確に制限が多いのでと、スムーズな就学へとあらゆる手を打っていこうとする私に医師からは娘の精神障害者保健福祉手帳の取得についても話があったほどでした。
確かに娘は変わりました。もちろん息子も、今は何か一つ困難を抜け出した状態だろうと思います。だけどそれは、決して私のやり方が凄いわけではないだろう。特別なことをしてきたつもりはありません。
私は我が家の今の状態が果たして世間的な正解なのかも知らないし、我が家はあくまで単なる“我が家流”の過ごし方をしています。そしてこれからも何があるかわからないし、きっとまだまだ大波小波🌊と色々なことが起こるだろうといつも覚悟しています。
だけどもしも私の対応が良かったと言えるならば、私が重視している視点は両側からの二つです。
『もしも私自身が今この同じ年齢の子供だったら、私は何をどうして欲しいか』
そして『同じ資質を持って育ってきた大人として親として、今この子のためにやるべきことはなんなのか』
それをただただ考え抜いて実行し、そうして日々勉強しながら学びながら試行錯誤の末において過ごしているだけなのです。
子が子なら、親も親。私たちはそれが“やっと噛み合い始めた”という表現が、今の我が家を表すような状態像かもしれません。
ところで。
今日は冒頭でりんご🍎のことわざを例に挙げてみましたが、これにはツッコミたいと思われる方も多いだろうと思います🤣
いやいや、子供はりんごだけじゃないだろう。タンポポはどうだ、綿毛は親の足元なんかには落ちやしない。カエルの子はカエルじゃないし、おたまじゃくしは全然別の形をしているし、最終的にはカエルになるからやっぱり親子だったのね〜って話になるかもしれませんが、トンビが鷹を産むという諺だってあるじゃないか。
子供と親は別物だ。当サイトを読んでくださっている方の中にももちろん何人もそうおっしゃる方もおられます。
我が家は突然変異的に息子が生まれたと思っています。彼の振る舞いに私たちはいつもいつも本当に戸惑わされるばかりです。
分かります、そのお気持ちも分かりますとも。だって私は足元に落ちたりんごでさえもこんなにもいつも意味不明だし、戸惑いだって大きかろうとお察しします。
確かに私は私の足元のリンゴが自分に似ていると知っていたので、その分の優位性はありました。だけどそれでも!意味不明なものは意味不明…そこは共感しあいたい、笑。
たんぽぽもさ、綿毛は遠くに飛んでいくけれどその後の子供の成長に関われないのは(仕方ないとはいえ)寂しいことかもしれないね。トンビと鷹って別の種だけど、鷹の結果も素晴らしいけど、子鷹だろうと子トンビだろうと子供をを育てたトンビの努力は讃えられてもいいと思うよ。
子が子であるなら親も親。意味不明な毎日ですが、似ている部分が見つかっているならそれはアドバンテージです。できることをただただ考えやっていく。結局それしかないのだろうと思います。
子供の成長に関われることは喜びです。生まれたばかりのあんなに可愛かった息子が今ではこれほど手を焼かせてくれるとは、当時の私は露ほども思っていませんでした😅だけど成長する息子を見て、『私は幸せものだなぁ』といつもいつも本当に強く感じています。
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