みなさんこんにちは✨
今日も当サイトを見にきてくださり、ありがとうございます✨
先の週末は息子と丹沢山塊の最高峰、蛭ヶ岳まで登山に出かけておりました。蛭ヶ岳は丹沢山塊の奥地にあり、往復で25km以上はしっかりと歩かねばなりません。なかなかのロングコースで、今日(これを26日月曜に書いています)は筋肉痛でヒーヒー言いながら書いています😂
さて、蛭ヶ岳登山の際、私はある中学受験ドキュメント『下克上受験』の文庫本を持っていき、一気に読みきってしまいました。
ドラマ化もされていて、大変な話題となった作品だったようですね。
面白かったです。
一気に読みました。
本書は『最終学歴が”中卒”の両親を持つ娘さんが、塾に通わずお父様と二人三脚で最難関の桜蔭中に挑戦する』というドキュメントです。
しかしこのドキュメントの本質は、中卒や最難関では決してない。
私はそう感じました。
これは、”知らない”ということがどれだけ不利であるかを描いた作品だったと思うのです。
今日は本書の感想とともに、”知らない”ことが不利となった自身の経験も記録したいと思います。
見えないハンディを持っている
気づけない
『下剋上受験』の著者であるお父様(櫻井信一さん)及びその奥様はお二人とも最終学歴が中学卒業。
本書は
ー私は「中卒」です。今の時代、一体どんな事情があれば中卒になるのかと、誰もが呆れます。口に出すかどうかは別にして例外なく皆が呆れるのです。ー
という出だしで始まります。
分からんでもないですが、この方はしかし不利な状況を自認し打破するために全力を投じ、娘さんの将来を切り拓く偉業を成し遂げました。本書はそのドキュメンタリーです。
私の話になりますが、少しお付き合いくださいませ。
私は近い身内に”中卒”の男性(1983年生まれ)がおります。彼は心身ともに健康ですが、子供の時、あるきっかけで学校に行くことができなくなりました。彼にも事情があったのです。彼は16歳から社会に出て一生懸命アルバイトをしながら資格を取り、よく回る頭脳と器用な手先、人脈にも恵まれて、今では大卒しか採用されない職場で副署長という管理職(正社員ですもちろん)を務めています。
今なお学歴が物差しの一つに使われている社会において、彼が歩んだ道は平坦ではなかったことと想像します。
だけど真面目にしっかりやって評価を受けてきた。これからもしっかりやっていくだろう。
私はそんな男性が身近にいて、彼を尊敬しています。
何かしらの理由で中学卒業が最終の学歴になった。だけど『中卒だから世の中を知らない』ということではないことを私は知っています。
”基礎教育の差”が”人間の差”では決して無いと知っています。
だけど、受験となると話は変わってくるでしょう。
自分が経験していないこと、未知のことに対して人は関心を持てません。見たことがないから知らないのです。
それは関心を持つ以前の問題です。
「中学受験て大変そう」「中学受験にはお金がかかるんでしょう?」「だからうちは諦める。」という話でさえなくて、そもそも中学受験という単語自体が不在です。
都市圏で育ち、中学受験をして育った人は、おそらくそのお子さんにも当たり前のように中学受験を勧めるでしょう。
私の以前の職場の同僚もそうでした。
『選択肢が狭まるのは可哀想だから、息子にはとりあえず中学受験はさせますね。』と京大卒の医師が言っていた。
ある人には”とりあえず手始めに”というほど当たり前のステップが、知らない人にはまず高い高い壁であることが事実です。
”選択肢が狭まるのは可哀想”ということさえも、知らない人には自分がいわゆる”可哀想”と言われる状況であることにすら気づけません。
『下剋上受験』のお父様がすごいなと思ったところの1つ目は、”中学受験”に気づいたこと。
なかなかできることではありません。
やり方がわからない
経験していないので、やり方がわからない。これもまた乗り越えなくてはならない不利の一つ。
『下剋上受験』のお父様はいろいろな中学受験塾に足を運び面談をしたりもしていますが、やはり”何をすれば良いか”が分からないので決めきれない。
塾の講師の話に『騙されているのでは無いか?』と二の足を踏み、『現状の偏差値からだとこの辺りしか狙えない』というかかる費用の割に低い目標に納得できず、最終的には親と子が一緒に勉強して支え合う”互学”による独自ルートで最難関を目指すことを決められます。
登山道で言えば、富士山の五合目から多くの登山客と歩調を合わせて登るのではなくて、誰も居ない道もないところを富士の裾野から登るのです。
そんな登山は登頂できないのみならず、事故や遭難のリスクが高い。助けてくれる通りがかりの人もいない。考えただけでゾッとします。
それでもきっと、この親御さんとお子さんには互学による切磋琢磨が良かったのだと思います。
”親塾で最難関を狙う”というのは、知らないからこそ取れた選択肢だったのかもしれません。
だけど、どんなに有名で実績のある塾よりも勝るのは親が付きっきりで子供を見ることができること。その子だけを見るのなら、なんだってしてやれます。
手探りだったけど、着実に情報を集めて進んでいったドキュメントは読んでハラハラしながらもとても勉強になりました。
このように、知らないことは多くの不利と、さらに言えば危険とさえ隣り合わせ。
このことをヒシヒシと感じた1冊だったと思います。
この父娘にあって私に無かったもの
”地の利”というアドバンテージ
知らなかったしやり方も分からなかった。
だけど、この父娘には圧倒的なアドバンテージがあったことも注目しないわけにはいきません。
それは”地の利”。
いわば、教育機会の地域格差というやつです。
桜蔭中を志し、桜蔭中に通学が可能な圏内に住まいを構えていたこと。
この父娘はこれまで中学受験を全く知らなかっただろうけど、知ろうと思った途端にその世界が自分の視野に入ってくるかどうか。そのアドバンテージがあったことは羨ましいと思いました。
都市と地方の”地域格差”
ここからまた私の話に戻ろうと思います。
私は富山県富山市の生まれで、18歳まで富山市内で育ちました。
隣の家まで数百メートルも離れているとか、そこまでの田舎町では無いですが、それでも私が通える範囲に塾は無かったし、私は塾というものに通ったことがありません(*高校受験を控えた中3の夏休みに、あまりにも私が勉強をしないので母に無理やり2週間だけ塾の季節講習に行かされたことはありました。無人駅から1時間に1本あるかどうかの電車に延々と乗って通いました。嫌だったなぁ。。)
そんな地域で育つと、知っている大学はもちろん”富山大学”一択です。
勉強ができる子は富山大学に進学したらエリート街道まっしぐら。家の誇り。そして何かしらの先生にでもなり、いずれ結婚して親の近所に住まう将来が良しとされる地域でした。
私は子供の頃は自身の特性を上手くコントロールできずに、中学校の”内申点”も低かった。だから高校は進学校を受験することはできませんでした(↓参考記事)。
だけど進学した中堅校で今も恩師と尊敬する人に出会い引き上げてもらい、大学受験の全てを高校で面倒を見てもらいました。
大学受験を確実に意識した高3の夏、高校の恩師は『お前は大阪大学のオープンキャンパスに行ってこい』と言いました。
言われた通り、私は行きました。
初めて特急に乗り、地図と高層ビルを見比べながら行きました。
大阪大学の何が良いのかも分からないまま行きました。
そしてそこで初めて”大学とは何をするところか、どのようなものか”を見たのです。
私の両親も最終学歴は高卒です。大学に行けなど言われたこともありません。さらに”大学生”という人は親戚や近所を探しても1人も居ませんでした。
『選択肢が狭まるのは可哀想だから、息子にはとりあえず中学受験はさせますね。』と同僚の医師が言っていた世界とは完全なる別物です。
知らないから、現実的な目的にもなり得ないし挑めない。
これが、地方で大学を知らない家庭に生まれた子の現実です。
もちろん今はインターネットがあるから情報は探しやすくはなっていると思います。
大学を知らない地方の子供の現実
真夏に行った大阪大学のオープンキャンパスの思い出は、とにかく”大阪は暑かった”ということでした。
しかし私の大学進学に対する興味はここで一気に強くなりました。
見学を終えて高校に戻り、私は
『大阪は暑いので、私は北海道大学を受験します。』
と恩師に強く言いました。
北海道ならこんなに暑くはないだろう。本当にそれだけの理由で志望校を決めました。
地方に生まれた子の現実です。
大学がそれぞれどのように違うのかまでは知りませんでした。
冬になり、センター試験を終えて、二次試験の申し込みは高校の先生がしてくれたので私は飛行機のチケットを取り札幌に向かい北海道大学の入学試験を受けました。
母には『奨学金をフルに借りて国立大に行って欲しい』と言われていたこともあって受験の了承を取りましたが、父には聞かれなかったので特に言っていませんでした。
無事に北海道大学理学部から合格通知をもらい、私は富山を出て北海道へ行く。
そう決めた時、まず父に言われました。
『このアホ!富山大学に合格できなかったのか!恥知らずが!』と。
さらに父は謎に親戚に連絡を回しており、祖母や親戚からも次々と『富山大学に合格できなかったんだって?可哀想に。それで名前も聞いたこともない北海道の大学に行くんだって?』と言われました。
22年前とは言え、これが地方に生まれた、大学を知らない家庭に生まれた子の現実です。
北海道大学はそれでも旧帝大、多くの人が目指す憧れの大学の一つだと思います。
だけど私は『この人でなし!親を捨てるのか!女が大学に行って何様になるつもりだ!』と言われて家を出ることになりました。
高校の恩師はこれを知っていたので、私が1人で飛行機に乗る前、
『何様にでも、なってきなさい。』と笑って送り出してくれました。
長くなりましたので、明日に続きたいと思います。
高校の恩師には40歳を過ぎた今でも助けられています(ご覧ください↓)。
こちらもぜひ読んでみてくださいね。面白かったですよ(↓)
コメント