みなさんこんにちは✨
突然ですが、私は地方都市の生まれでして、18歳までを富山県内の両親の家で育ちました。大人になり、私は研究職に従事しました。いろいろな人に出会い、国内外の少し広い世界も経験したことを通して私は地方で育つことの不利を実感として感じたことがあり、それについては以前にも記録したとおりです(↓)。
大人になってから私は北海道の札幌市内で長く暮らして来ましたが(夫の仕事の都合で一時的に愛知県名古屋市に住んでいたこともありましたが)、長男である息子が就学前の年長の時に東京都内の、それもまさに都心部のど真ん中に移ってきて今もそのまま都心部で生活の基盤を築いています。私の子供たちは二人とも、このまま東京都内の都市部において就学し育つことになるでしょう。
これまで私の子供達には、本当にいろいろなことがありました。
特に息子や娘(及び自分自身)の発達特性に気がついてからは、私はさまざまな専門家に助けを求め(↓)、また、幸運なことにそれらは全て叶って来たと思っています。
娘の場面緘黙については診察をしていただける児童精神科医を探して必死に奔走したこともありました(↓)。それでも、都内であれば多少遠方とは言えど電車を乗り継いでも2時間以内の場所において求めていたクリニックに出会うことが叶いました。“良いチーム”が組めたのだろうと思っています。それら周囲の専門家には、私たちは本当に恵まれて来たと今の私は感じています。
だから、今の私はすっかり忘れかけておりました。
これは都市部だからリソースが多いことに恵まれて来たおかげであって、国内のどこででも、こんなふうにチームが組めるわけではないだろう、ということを。
令和の今、インターネットは誰でも当たり前に使えるようになりました。たった数十年前には想像もできなかったほどの多量の情報へのアクセスはとても易しくなりました。もちろんその情報の有効性や信頼性を見定める必要はありますが、時代は大きく変わりました。
そんな令和の“今”においても、都市部と地方の間には、やはり機会の多さという点で大きな隔たりがあるようなのです。どうしてその差は埋まらないのか。それとも埋まりつつあるがまだまだ足りないだけなのか。私も地方都市の生まれであるので、その情報量の差や機会の少なさは経験として知っているつもりです。だけどそれは昭和から平成前半の話です。どうしてこんなことが令和の今なお続いているというのだろうか。私は、衝撃を受けました。
それは、当サイトをこれまでの全記事を読んでくださっているという(←びっくり!😲)、ある地方都市にお住まいの方からこんなLINEをいただいたことがきっかけでした。
昨日のブログ、興味深く読ませて頂きました(↓)。
地方都市の現状と東京との違いにただただ狼狽えています。
我が家は先日コロナに罹患しました。こちらではオンライン授業参加なんてなく、担任がノートのコピーをまとめて1週間分ポストインして下さいました。タブレットは学校保管、学期末に接続テストで持ち帰りましたが、それはインターネットに繋がるか否かであって、オンライン授業のテストはしていません。オンライン授業なんて私立中高の話かと思っておりました。
なんてことだ。オンライン授業はすっかり普及したのだと思ってた。
私の息子は全く私立小学校ではなく、地域の皆が普通に通う公立小学校に通っています(した)。その小学校は本当に普通の区立小学校ではありますが、それでもコロナ禍を受けて昨年度の早い時期に学校側のインターネット回線拡充のための大規模工事も終わっており、今ではオンライン授業も希望者は全員受けられるし、さらには多数の保護者が同時にアクセスを行うような保護者会さえもオンラインで行われることが当たり前になっています(←どこからでも参加でき、そのために仕事を早退しなくて良いのでと働く保護者にもとても好評らしいです)。
息子が通う小学校だけが特別なのではなさそうです。近隣の小中学校でもオンライン授業は利用可能になっているし、さらに言えば、5歳の娘が通っている公立の認可保育園でさえも今年度からは保護者会は完全オンラインで実施されるようテスト段階に入っています。
だから私はすっかり、既に全国的にそうなのだろうと思い込んでいたのですが、RさんからのLINEにおいてそれはまだ一部の地域に限定的なことだったのだと気づかさせていただきました。
だけど私は不思議です。
どうして地方都市も同じようにコロナ禍を経験したにも関わらず、タブレットだってせっかく配布されているのに、オンライン授業はテストさえもされていないというのだろうか?
必要ないと、思っているのか?
それでもコロナ禍の初期おいて子供たちがどういう状況に陥ってしまったかは記憶に新しいところです。大人も仕事やイベントにおいてオンラインを活用する機会が増えました。オンラインの良さは既に周知されています。色々なお子さんがいるのだから、オンライン授業も選択肢の一つとして利用可能になっていればそれはとても心強いと思います。
インターネット回線に関する問題か?
それなら学校側で拡充工事をすれば良いでしょう。息子が通う小学校でも大規模工事が実施されておりました。
wi-fiが完備されていないお家があるからか?
それはあるかも🤔スマホはあってもPCがないお家はたくさんあると思うし、そういうご家庭ではwi-fiは設置されていないかもしれません。だけどこれについては、例えば息子が通う小学校ではオンライン授業の導入前に各家庭にインターネット回線状況の聞き取りがあり、その際にはどうしても回線を用意できないご家庭にはポケット型のWi-Fiルーターが学校から無償で貸し出されるという解決案も提案されておりました。
(↓最近は自宅の工事も不要だし、初期費用もかからなくなりました)
つまり、オンライン授業はやろうと思えば手立てはなんとでもなりそうなのに、どうしてそれを試みることさえなされていないのかが私はとても不思議でした。
ところで、そのRさんの息子君は(当サイトを読んでくださるということですのでやはり)高IQ児であり、どうやら今通学している小学校にはあまり馴染めていないのだということでした。言わば彼は今、“不登校”の一歩手前、崖っぷちの状態です。そのことでRさんはとても悩んでおられます。
それについて、私はRさんにこんな提案をしてみたことがありました。私は息子の学校生活や学校との連携において区の教育相談の臨床心理士さんにとても助けられていると感じているので、
教育相談は利用されていませんか?教育委員会に付随していると聞いたので、近くに窓口があるかもしれません。
教育委員会は必ず津々浦々にあるのだから、教育相談へのアクセスはきっといくらかはRさんの助けになってくれるだろう。私はそう安易に考えておりました。しかしRさんは既に相談に行かれており、それでも手応えを全く感じられなかった経験を積み重ねておられたと聞きました😭
こちらの市の相談室は退職された校長先生や特別支援教育に携わっていた先生が雇用され、勤務しています。
何度か相談に行きましたが、高IQ児が困難さを抱えていることも、ギフテッドという言葉も全くご存知なかった。全く支援を仰げる状況にないのです。
私が一番読みやすいと思う片桐先生の「ギフテッドの個性を知り伸ばす方法」を持参し、相談室に置いてきたのが春頃のことです…。
小児科ドクターにはIQが高すぎて学校適応が難しい、不登校や引きこもりになる可能性が高いと言われましたが、市内にはカウンセリングをして頂けるようなところはないと言われ八方塞がりです。
地方都市であるがゆえに、一度不登校になってしまうとそこから先の支援もほぼないだろうと感じています。
一方、関東で教員をしている友達の学校にはリソースルームというものがあり、学級に馴染めなかったり、学校に馴染めかったりする子どもたちを受け入れているそうです。
そのような話も聞いていて…田舎で育つことの大変さを痛感いたしました。
考えさせられるお話です。
子供の教育の“機会均等”とはなんなのか。
なぜこんなにも情報へのアクセスが容易な時世においてなお、地方都市とは言えども、仮にも教育支援に携わっている人間がある子供の困難にさえ全く無知であるというのだろうか。私は恐ろしくもなりました。
そこでふと、私は先日に聴講したオンラインでのWEBシンポジウムでの内容を思い出しておりました(↓)
そのシンポジウムにおいて、演者の方は確かにこう仰いました。
東京に居てもさえどうしても自分で情報を取りに行かないといけないという状況に変わりはなく、ましてや住まいが地方であればあるほど情報はなく施設もなく、教育者や支援者でさえ東京ほどにはインクルーシブやダイバーシティへの理解が進んでいないことが現状です。
私は、この演者の方が仰るその“現状”というのがまさにRさんの今の状況であるのだろうと思いました。
なぜ地方では、オンライン授業は未だテストさえもされていないか。
なぜ地方では、支援者にさえダイバーシティへの理解や知識が進んでいないというのだろうか。
それはただの怠慢か?
それとも何か、どうしても出来ない事情が他にあるのだろうのか🤔
もしくは、それもまた地方に育つが故の『知らないという不利』の一つであり、その支援者もまた被害者(?)の一人にしか過ぎないのかもなとも思います。
だとしてもさ、研修くらいは全国で同じものを受ければいいのにと思うけれど、それもまたそういう問題でもないのでしょうかね🤔
私には、何が障壁になっているのかはわかりません。
だけど私は非常に考えさせられる現状についてを学ぶことができました。
高IQ児は津々浦々に、どんな地方でも同じ程度の割合で存在するのだと思います。地方だから知らなくても良いわけでも、知らなくても仕方ないわけでもありません。
どうかこの先の近い将来において、この“現状”が少しでも変わって行ってほしいと強く願っています。
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