みなさんこんにちは。
今日も当サイトへお越しくださり、ありがとうございます。
先日に記録した、下記の記事について、賛同だったり、それぞれの教室の実情だったり、経験談など、いくつものご意見やご感想をいただきました。今日はそれに触れておきたいと思います。

その中でも、よく聞く話は、高IQのお子様が、学習に困難のある子のお世話係を任されやすいことなどです。これは本当によく聞きます。特に女の子であればいっそう、そういう役目を背負いがち。

娘はいつも授業についていけない子のお世話係のようなことをやらされていたけど、それがすごく嫌で、先生に何度か言ったこともあります。高学年でその子は特別支援級に移ることになったのだけど、もっと早く移った方が良かった面もあったかもしれない。
何が言いたいかというと、子供の特性(認知能力だけではなく)に応じたグループ分けを行うことは、教師にとっても生徒にとってもメリットがあるのではないかということです。
良く出来る子には「先生役を手伝ってもらおう」「教える側に回ってもらおう」、そんな話もたまに聞くけど、私の意見は、それって勝手な大人の都合に他ならないよねというものです。その理由は、良く出来る子だって子供であるし、学び手だから。
それに対し、「教えることで理解はさらに深まる」という視点があるのも知っているけど、それは受験勉強などにおいてある程度学力が近い者同士の学び合いの、議論が可能で刺激を与え合えるケースでこそ有効である話であって、よく出来る子が教室内で要支援児童の支援をするのは全くそれと異なります。子供の支援は、給料をもらっている大人がすることですよ。良く出来る子に大人の役割を背負わせるのは、違うだろうと思います。
また、高IQ児をお育てになっているという元教員の方が数年ぶりに復職して、『現場はこんなに酷かったっけ?』と混乱したという、そんな話もとても印象的でした。

復職して、公立小学校、いろいろびっくりです。教えない、考えさせる勉強をさせても基礎学力がない子が多く、考えさせても何も産まれず。震えてきます。
公立小学校の先生のレベルも…?。と、元教員の私が感じています。
学校現場は、もはやかつての“昔”とは、また異なる状況に立たされているのかもしれません。昨今の、先生の成り手不足はすなわち先生の質を担保できないことに直結します。

昔は「力のある人」が誇りを持って教員になっていました。だから教室内にある程度多様性があったとしてもなんとかなってきていた部分はあるでしょう。
しかし今は、教員の成り手不足が深刻で、ヘタをすると就職活動がうまく行かなかったという大人が教員になるケースも起こっているのです。今の現場の教員が高IQ児の支援を担うことは難しいケースもあるでしょう。

一方で、公立の学校はカオスであるが、受験をして入った学校ではそれほどでもないという話もまた聞きました。
確かにそれはそうかもしれない。
我が家の娘も小学校受験を経験し、私立小学校に通っています。言葉を選ばずに書かせていただくならば、受験をして入る学校の教室内は、“ある程度粒が揃っている”状態です。その教室内は子供らしさの中にも落ち着きがあり、まとまりがあり、不安の強い娘が安心して過ごせていることを鑑みても、環境は恵まれていると思います。同時に、そのような環境では、教える側ももちろんいくらかやりやすいと思います。
公立小学校はカオスである。
ギフテッド児の支援は、そこで、本当に可能か!?と投げかけてみた記事でしたが、
ちょっとやっぱり、その中でのギフテッド児支援というのは本当に本当に可能なの!?と改めて問い直したい状況であることが見えました。
もちろんうまく運ぶ学校もあるかもしれない、だけどそうではない学校もあるでしょう。問題は、子供や保護者がそれを入学前から十分に知り選びとることができないことです。だったら大人側の視点から、子供の特性に応じたある程度の“取り出し”も、もしかしたらアリかもねと、ただそれだけの話です。
お話をお聞かせいただいております皆様、いつもありがとうございます。
またいろいろなエピソードなどがおありでしたら、後学のために(?)私にもお聞かせいただければと思います。
ーーー書籍紹介ーーー
発達障害とかじゃなくて(当サイトの主題とは別だという意味です、笑)、普通の小説です。芥川賞を受賞された作品で、読まれた方も多いだろうと思います。私も登山を趣味とするものの1人として、読まないわけにはいかんだろうと読みました。臨場感と人の心の揺れが迫る素晴らしい作品でした。
『そういう恐怖とか不安感ってさ、自分で作り出しているもんなんだよ。それが増殖して伝染するんだよ。まぼろしだよ。だからね、だからやるしかないんだよ、実際に。(本文より抜粋)』
それが、今の私の心境を言い得ていると思いました。いくら心配しすぎても、なるようにしかなりません。多くの人が歩こうとする“直登ルート”に背を向ける我が子のことは心配ですが、幻と現状を区別して、他人と違うルートでも、どれだけでも迷っても、できることをやっていくしかありません。
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