みなさんこんにちは✨
今日も当サイトを見に来てくださりありがとうございます✨
今日はちょっとだけ、知能指数の話です。
先日に、友達と子供の話をしていた時に息子の話になりまして、こんな会話がありました。
息子に発達障害があるみたいで、最近はその対応に集中してるの。
そうなんだ。
どんな感じで困っているの?
こだわりが強かったりさ、もう完全に自分の軸が社会とずれてる感じだよ。
それに彼は知能指数がとても高くて、それに起因する難しさも持ってるみたい。
すると彼女はこう言いました。
へー!すごいじゃん!
今日は、この違和感について記録しようと思います。
知能指数が高いこともまた、障害なのです。『すごい』と言われる反応に私は違和感を感じます。
高知能もまた、対応を要する障害である
いったい何がすごいのか
へー!すごいじゃん!
冒頭の会話について、これは結構多くいただきがちな反応です。
だけど私は、これにいつも大きな違和感を感じます。正直に申し上げれば、もう少し違う反応をして欲しいなぁと心の中では願っています。
これに対して、最近の私は
すごいっていうけどさ、それも“障害”なんだよ?
と返しています。
冒頭の友人はとても話が伝わる人なので、
そうだよね。困ってるんだもんね。
と恐縮されつつ、私の言わんとすることはしっかりと分かってもらうことができました。
高知能児のイメージ
どうしてそのような反応になるのかについては、私もなんとなくは分かります。
高知能児は、日本においては“英才児”のイメージへと直結します。“ギフテッド”というものへの希少なイメージもあるのかもしれません。
その“英才児(またはギフテッド)”のイメージが日本では謎に良過ぎる、というかブランド化さえしてきているため、だから『すごい』という反応に繋がるのだろうと思われます。
そんな折、先日に当サイトを読んでくださっているというカナダにお住まいの方からいただいたメールの中にこんな一言がありました。
“📨 こちらではgifted=障害との認識です。”
そう。ギフテッド教育が定着している欧米(この場合はカナダ)において、giftedというのは対応を要する障害として認識されているということです。
この一文は、私の違和感をスッと消化するものでした。
私はこの方からのメールを、大きく頷きながら読みました。
なるほどな。とても分かりやすい、なんとしっくりくる表現だ。わたしはとても共感しました。
まさにそう。私は息子のことをそんなふうに認識しています。
息子がgiftedと言われるものかどうかは別の話ですが、少なくとも彼は発達障害を持っていると思われていて、かつ高知能です。
そんな彼を私は、対応を要する、やや強い個性を持った子だと捉えています。
彼は決して『すごい』と言われる状態ではありません。少なくとも、今はまだ。
その頭脳構造が彼の人生において『吉』と出るか『凶』と出るかは、まだ誰にもわからないことなのです。
だけど日本では“高知能”がすなわち”英才児”というイメージになってしまうので、
『海外なら飛び級もできちゃうような、天才的な子なんでしょう!?😊』
という謎に良いイメージで捉えられてしまいます。
だから『すごい』という感想が出るんだろうな、と思います。
理解できないわけでもないけどね。
だけどとても複雑です。
だって、本人が困っていることを知っているから。家族だって困ることが多いでしょう。
もしこれを読まれて『ハッ』とされた方がいらっしゃれば、どうか知って欲しいと思います。
高知能もまた、障害(となる場合があるの)です。
本人にとってはそれが重荷になっている可能性があることを、決して『すごい』と手放しで喜べる状況でないことを、どうか知って欲しいと思います。
どういう反応だと違和感が無いだろう
どんな反応だとありがたいか
私だって、必要もないのに息子の話は持ち出しません。
知っておいて欲しいとか、なんらかの必要があるから息子の話をしています。
そんな時、『すごいじゃん!』という反応以外ではどんな風に話が続けば嬉しいかな?とちょっと考えを巡らせました。
一つはふつうに、
『へー、そうなんだー』で良いような気がします(←そんだけかーい!😅)。
そんで『いま何年生だっけ?趣味とかあるの?』とかさ、なんでもない話が続いていったら私はとてもありがたい😊
あとはまぁ、息子の成長を願ってくれたら嬉しいかな。
『大変だろうけど、健やかに育つと良いね〜』ってな感じかな?そしたら『本当にね、手がかかるけど可愛い子だもの、ありがとう😊』って私も返すだろうと思います。
高知能はそれ単体ではすごくない
ちなみに私自身も、おそらく高知能と言われる部類にあたります。
その子供の頃は、様々な場面で多様な困難に直面しながら育ってきました。(↓以前の記事をご参照ください)
私は決して『すごい』と評価される子供ではありませんでした。なんなら『よく解らない』と評される類の子供だったと思います。
通知表の初見欄にもあまり良いことは書かれなかったし、とにかくコミュニケーションや自己表現が苦手だったのできっと様々な誤解を受けていただろうと思います。
だけど適した環境、自分への自信。
そういったものを私は偶然か必然か得ることができて、おかげで私はなんとか大人になりました。
だけどそれは本当にラッキーだったし恵まれていたと、本当にありがたかったと思っています。
高知能は、それ単体ですごいことではないんです。
高知能は障害となる場合もあり、周囲の理解、支援を受けられた方が望ましい
そういうものであるという認識が、日本でもっと広がると良いなと思います。
これについてはいずれまた、考えを深めてみたいなと思っています。
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