みなさんこんにちは✨
今日も当サイトへお越しくださり、ありがとうございます。
今週は、私は第2の故郷であり、私の愛息子が幼少期を過ごした北海道は札幌市へと久しぶりに帰省をしておりました。昨夜に東京に戻りました。たくさんの友人に会え、息子の希望で野球観戦を楽しんで、とても楽しい時間を過ごしました。そして隙あらば人気店の札幌ラーメンを食べ歩き、スープカレーを食らい、ジンギスカンを食らい、馴染みの居酒屋で刺身を食らい、日本酒を食らい、サッポロビールを飲みまくる。
私はこの数日間で生命維持に必要過分のエネルギーを摂取して増量⇧。着ていったワンピースが帰りはなぜかとてもキツイという事態に見舞われましたが🤣まぁしかし、私ももういくらかは生き延びるためのエネルギーを蓄えられたということで、前向きに評価しております😁
9月23日には、担当させていただいている北日本新聞の連載の新しい記事も無事に更新されています(↓)よろしければこちらもお目通しを頂けましたら幸いです。
さて、ここしばらくの多忙により当サイトは更新を休んでいたのはそうなのですが、私の心の中では色々書きたいことは溢れております。何から書こうか悩ましいなと思っております。
その中でも、
高IQ児あるあるの一つ、
“授業のノートを書かない問題”もどうなのかしらと思ったり。
これは本当によく聞く話。揃いも揃って、絶対に板書をしないという小僧小娘らが高IQ児の中には居ます🤣
板書やノート書くのが嫌いなんだよねー。テストとかでも途中式も書かないし、とにかく書きたくないみたい。
息子も、テスト以外は字すら書かない😩
とにかく、彼ら彼女らは書かないことが顕著です。
なんでだろう?
私の息子もその部類の子供です。小学校でも、少しだけ中学校に登校していたときもそう。
息子ー、ノートはまだあるの?買わなくて良いの?
まだある、大丈夫。
え?ウチの子は今学期もう3冊目よ?ノートがすぐに減ってしまって大変なのよ。
・・・。そういえば、我が家は学校用のノートを買ったことはこれまでほとんどないかもしれない・・・。
そんで公教育の現場では、評点を稼げず評価も低くなりがちです。定期テストの点数は高くとも、通知表は3とか2になります。
ノートの提出がされていないので、ノート提出の評点がつかないのです。
ノート書かない問題は、今の公教育の見地からは“頑張っていない”とみなされることも本当におかしな話だと思います。
高IQ児がノートを書かない。その説明の一つには、
『頭の中の回転の速さと物理的な身体動作の遅さのギャップでその歯車が噛み合わないから辛くて書けない』というのはたまに聞く考察のうちの一つでしょう。
しかし私自身は実際は、その説明には懐疑的な印象です。そこまで頭の回転は早過ぎないし、体の動作は遅過ぎないでしょ、さすがにさ😅
それに何より、私自身のことですが、私はノートを書いていました。高校受験の勉強をしていたときに、ノートを作る有用性に気づいたことがきっかけでした。
深い思考で考え抜いて、全ての情報を網羅できた渾身のノートの見開きページ。あれはもう、震える美しさを備えており、宝物の域でした。社会科や生物学など、暗記をベースとしていく科目に有用だったかもしれません。
一方、数学なんかは、A3などのなんでもないプリント裏とかを活用しては自由に問題を解いていき、解き終わったらバンバン捨てて次!次!とやっていたのでそういえば私も数学のノート自体は作ってなかったかもしれません。それでもなにかの裏紙とかでも、途中式や図を入れて、入り口から出口まで、大変美しい解答が書けたときにはそれはもう、自分でも心底それに惚れ惚れとしたものでした。
“板書をしない問題”について、かつて私の息子が話したことを今一度思い返してみます。
だって、授業では教科書に書いてある以上のことは出てこないし。
→だから板書を移す必要はない。なぜなら教科書を見ればわかるのだから、それをあえてまた書く意味はないのだよと、そういう意味合いあたりでしょうか。
ん?
それってすごく当然じゃない?なんのためのノートだろう。自分のための忘備録ではないのだろうか。
もう一つ、息子はよく言っていました。
書きながら聞くより、聞くだけに集中していた方が頭に入るんだよ。だからそうしてる。
そうなのか。私はあなたが毎学年のノートの最初の1ページほどは何かを書こうとしているけれど、すぐ書かなくなって1学年が終わるから「ノートがもったいないなぁ」と思っていたの。そういう事情があったのか。
事実、息子は学校に行っていたときには定期テストは高得点を取りました(←もちろん科目によりますが)。彼はしっかり理解して、学業を習得していたのでしょう。情報処理の方法は人それぞれということです。
それでも通知表は3と2だけどね、“ノート提出の評点”とやらがないからさ、努力が足りないって思われちゃっているんだとは思うけどね。(←本人なりには相応に、なんなら人一倍努力していると思うけどな、私は大変悲しいですよ😞)。
また、我が家でもかつて試してすごく良かったと思うのが、無地の落書き帳を計算用紙に、また、ノートは枠線や罫線のない無地を使うという方法です(↓)。
無地のノートは、息子と私は『うるさくない』と表現し、好んで使っているものです。うるさいっていうのは音だけじゃないよ、目もうるさいの、とても疲れてしまいます。
だけどやっぱり、ノートだけじゃないのですが、
本人が必要に迫られて、自らの意思で使うこと、
それ以外のことは決して彼ら彼女らの行動の動機にはなり得ないと、そういうことだと思います。
“みんな”がそうするからとか、
“普通は”こうだからとか、
その通りに倣いなさいと、
真に普通の人なんて世の中に1人さえもいないのに、なんぼのもんじゃと思うよね。
それもある程度大きくなって自我が育てばそう思えることもあるのですが、学齢期の幼い子では“みんな”のように“普通”になれないことは自己肯定感の低下を招いてしまうことがあり得ます。それは今の大人の課題です。
今の大人が心から“人それぞれだよね”って当たり前に思っていたら、救われる子がずいぶん居ると言うことです。
だけどまだ、その段階に至るにはもう少しだけ時間がかかると言うことでしょうか。感覚的には、地方都市であれば尚更か、とも感じたりもするこの頃です。
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