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発達障害: 大人になればマシになる?-私の場合 完結編

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当サイトの開設に至る経緯-混乱の記録

みなさんこんにちは✨

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さて、今日もまた先日の続き。今日で“その7”、一旦のシリーズ完結とさせていただこうと思います。

先日、私は当サイトの記事(↓)で

と書いたことをきっかけに、『では同じような発達障害傾向を持つ私の特性は、成長に伴いどうやって丸くなったのか?』というコメントを投げかけてもらいました。

そこでここ最近は私自身の特性について考察し、私の意識が変わったきっかけを追っています。

わたし
わたし

博士号を取得してから気づくこともありました。

『立場が人を育てる』のだと締めくくりたいと思います。

博士号授与前後に得た強さ

研究成果の発表と報道

博士後期課程(博士課程)に進学し、私はとにかく研究に没頭していました。

私は博士課程において日本学術振興会の特別研究員に採用され、お給料代わりの“研究奨励金”が支給されることになり経済的な心配はしなくてもよくなりました。とてもありがたいことでした。

思うようにならないこともあったし、出来ないことも嫌なこともあったけど、総じて研究活動は興味深く、熱中するに十分値するものでした。多くの専門家と力を合わせて進展する研究、一瞬垣間見る生命の真理は時に素晴らしい感動や感激をもたらしました。

お世話になった先生が言っていました。

『研究は麻薬みたいな面がある。普段は地味で苦しい研究活動だけど、ハッと感じたあの感動をまた味わいたくてやめることができなくなってしまうんだよね👍』

その方は少し前に膵臓癌のためお若くしてお亡くなりになりました。消化器内科の第一人者で、色々なことを教えてくれたとても気の良い先生でした。

 

こうして多くの人に助けられ、私は2009年に自身の博士学位審査の主論文となる論文を発表しました。

心の持ちようと強さ

その研究成果をもとに私はその冬に博士の学位を申請し、学位審査を受けました。

これは準備もソコソコ大変であるのみならず、結構大きなプレッシャーを抱えた一大イベント。数日前からプレゼンテーションの準備をしつつ、私は大いに緊張していました。すでに乗り越えたとはいえ私には場面緘黙の傾向があったことも関係するかもしれません。私はこのような場面で(おそらく)人一倍緊張してしまって顔面蒼白になることすらも多いです(←一言目を喋り始めれば堂々と突っ切れるので、その場に出てしまえば平気です👍)

あまりにも緊張する私に、尊敬する2人の先輩が話してくれた経験談が今もとても印象に残っています。

まずそのお一人の話。

『俺が博士の学位審査を受けた年はさ、長野五輪があった1998年なんだけど』から切り出され、

『俺もすっごい緊張して、これは博士の学位を授与するに満たないとか低質だとか言われたらどうしようとか、そういうことばっかり思っちゃうんだよ。だからすごい分かるんだよ。だけど俺の時はさ、その時ふとテレビを見たら、ちょうど船木がジャンプを飛ぶところだったの、それも日本中の期待を背負ってだ。その時、ふっと力が抜けたんだよ。あぁ、俺は彼に比べたら…。もし仮に失敗しても、俺は自分だけの問題で済むから気楽だわ、って思ったんだよ、笑。そういうもんだから、気楽に行けばいいんじゃない?笑』

そうか!そういうもんか!

そんな先輩の経験談を聞き、私はちょっと気を持ち直し😅

誠におっしゃる通り、あの時の船木さんの状況に比べたら私はなんと小さいレベルで戸惑っているのか!と思いました。

 

また、もうお一人の先輩(っていうかすごい研究者、現京大教授)も私にこんな話をしてくれました。

『とにかく、背筋を伸ばして堂々と振る舞うこと。今は戦時中でも混乱下でもない。失敗して命を取られることはないし、何度だってやり直せる。』

真面目な顔で静かにそう話してくださった先生のお顔は忘れられません。

そうか、皆んなもそういう意識で物事に向き合い乗り越えているのだなと思いました。思い切りは大事なことだ。

(↑ちなみにこの先生は思い切りの良い人で、それからもいわゆる“常識”をはかりかねる私にいろいろとアドバイスをしてくださりました。例えば私が息子を妊娠中に学会に参加する際に『スーツにはハイヒールだよね…?』という謎の常識(?)に囚われていた際、『ハイヒールで良いわけないだろ!靴なんて、なにか履いてりゃいいんだよ!』ってズバッと言ってくれたりとかですよ。)

そんなこんなで私はこの頃、“ダメで元々”“出たとこ勝負”、しかし自分の全力をもって精一杯を尽くすべしという強さ(図太さ?)を身につけることができました。

この時に培った行動原理は、今も私の基本だろうと思います。

見た目の問題

「コレが?」と言われて

その春。私は博士号を取得して、プロの研究者になりました。

指導教官だった教授と同行したり学会や会議に参加する機会も増えたのですが、どこかの学会かなにかで教授が私のことを紹介した際、他所の人にこう言われたことがありました。

『コレが?』

 

当時の私はいまだ髪を明るく染めて、自分の好きな、つまりやや個性的なスーツを着ていました。さらに私は小柄(身長は150cmほど)で童顔、とてもプロの研究者に見えなかったのだろうと(今では)思います。(それでも全く失礼だとは思いますけどね!)

これに私は憤慨しました。研究室に帰ってからも根に持ちプリプリしながら同僚にその話をぶつけていました。でも、ここで教室員だった外科医に言われた言葉は今も印象に残っています。

『自分よりも、そういう時は畠山先生に恥ずかしい思いをさせることになるんじゃないの?』

私はハッとしました。

なんてことだ。私のせいで、周りに恥ずかしい思いをさせてしまうことがあり得るのか。

それに気づいた私はすぐに髪色を黒くして髪を伸ばし、以降は染髪することはありませんでした。カラフルな髪色は散々やりきったので“飽きた”ということもありますが、何より自分には自分の髪色が一番似合うと気が付きました。

 

また、こんなこともありました。

若い男性の学生さんを連れて共同研究先に赴いた際、先方の教室の先生は私にではなく、私の隣にいる男性の学生さんに向かって話しています。疎外される私、困惑する学生、話が通じない先方の先生。皆がなにか噛み合わない違和感を感じていました。

『あの、すみません、私に向かって話してもらえませんか?』

そこで私がそう言うと、先方の先生はこう言いました。

『お嬢ちゃんに言って、何か分かるわけ?』

『分かるか分からないかは分かりませんが、少なくとも私に向かって話していただくしかないはずですが。』

当時、まだまだ男性メインの研究者社会でした。私は20代後半とはいえ幼く見えるほうだったので、無理もないかもしれません(それでも全く失礼だとは思いますけどね!)

 

しかしこれらの経験を通して私は、自分はすでに社会人としての、年相応の振る舞いを要求されていることに気が付きました。

それから私は服装も綺麗めのものに買い替えて、どうしたら一人前に見てもらえるかを考えるようになりました。

とはいえ暴走しがちな私は、指導教官であった教授がガッシリした恰幅の良い方(太っているわけではないけど大きく見える感じ)だったために『体重を増やせば良いんだ!』という謎のひらめきで太ろうと躍起になったことがありました😅それも教室員の外科医に『畠山先生の貫禄は体格ではなく内面から滲み出るもの。体重を増やすのはやめなさい。』と言われるまで気づかなかったっていうのも余談です。こういうトコだよね〜、思い込みや勘違い。ホンマによ💦

自信と味方

研究活動と視野の拡がり

なんやかんやとありつつも、研究は順調で拡がりを見せ、私は楽しくやっていました。

いくつかの研究賞を受賞して、新聞や雑誌、ラジオ、テレビ出演の機会も得てますますいろいろな人と出会う機会があり、私は世の中が広く大きいのだと知りました。

受賞をきっかけにいくつか取材を受けたりしました。

当時は女性研究者支援の機運が高まり、様々な女性研究者支援策が立案されていたことも重なりました。ファッション誌のインタビューでは華やかなモデルさんを見たり自分もお化粧してもらったりして楽しかったし、若手研究者の交流事業での海外派遣に選んでいただいたり、国家的な女性研究者支援策を議論するため議員連盟に参加して意見を述べたことなども良い経験でした。

新しい経験をするたび、私は社会人としての立場が私を成長させてくれることを感じて自信を育んでいきました。

以降も大学教員として、母親として。それぞれの立場が私を変え成長させてくれたと思っています。

自分は十分恵まれていることを知った

また、この頃に夫と結婚する運びとなり、私は夫を連れて久しぶりに富山に向かいました。こんな私の人格の基盤を作ってくれた、感謝してもしきれないし一生を足を向けて眠れないと思っている高校生時代の仲間たち、恩師たちに夫を紹介するためでした。

高校時代の仲間は多くが地元で生活を立てており、誰かの結婚式などの節目のたびにそれぞれの配偶者らも加わって大所帯の楽しい飲み会を開催していました。今回は私のために、その飲み会を開いてもらったのです。

 

会場に入るなり、夫は私の親友たちから好奇の視線を向けられていました。そのうちに、それぞれが夫にヒソヒソと話しかけ始めました。

『だいじょうぶなん!?Naomiは変わってるよ!?昔はこんなこともあって大変だった。』

『変人だけど平気なん?普段の生活は問題ないの?』

旦那さんはまともな人だ!なんで!?』

『どうか、よろしくおねがいします。どうかどうか引っ張っていってやってください。』

などなど。

よくもまぁそこまで悪し様に言えますね!?という勢いで友達と恩師は口々に私の悪口を言いました。

聞くに耐えなくなった私は『ちょっと、もうやめてよ!』って言ったんだけど、夫はハハッと笑ってこう言いました。

夫

大丈夫、みんな、Naomiさんのことが好きなんだな〜って思ったよ😊

友達たちは『そうそう、そういうこと😊良い人で良かった😊』と言いました。

 

この時、私はこれまでずっと勝手ばかりしてきたけど、自分はなんて恵まれているのだろうかと思いました。

私はこれまで、話が通じないとか空気が読めていないとかは日常茶飯事だったはずです。思いやりに欠けた嫌な言い方をしたことも、不遜な態度もたくさんあったことは間違い無いです。私自身も生きづらかったのみならず、周りの人にもやりづらさを感じさせたことも多いはず。

だけど私は、節目節目の巡り合わせで素晴らしい出会いに基づく多くのきっかけを頂きました。それらは本当に幸運なことでした。その方々はじめ、全ての方に感謝してもしきれないと思っています。これからの人生において、私はなんとかこの恩を返していければなぁと密かに企んでいます。

 

そして今、私は10歳の息子をまるで子供の頃の自分を見ているような感覚で見守っています。

親子とは言え他人であるし別人格。私と息子では特性のタイプはよく似ているように思うけれど、全く同じでもありません。それでも息子を見ていて言えるのは、彼もまた、きっとある程度の生きづらさを抱えたままで育つだろうということです。

とても心配しています。どうか強く育って欲しい。

 

だけど今は時代が違う。

発達障害に対する認知や理解は昭和の頃とは比べものにならないし、合理的配慮という新しい言葉も生まれています。

そして息子は環境が違う。

我が家は私が育った環境とは違い、地方かつ何も情報がない家ではありません。私や夫はもちろん、周囲の支援者たちは息子のことを真剣に大切に考えてこその助言をします。そして両親とも健康で共働き(今は私が無職ですが💦いずれまた働くつもり💦)の家庭であるので、ある程度までは経済的な心配をせずに全力で向き合いサポートすることが可能なことも息子のアドバンテージだと思います。

 

どうか彼にも素晴らしく、導いてくれるような出会いができるだけ多くあるようにと願っています。これまでの私がそうであったように、どうかどうか、良い出会いに恵まれますようにといつも心から願っています。

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