みなさんこんにちは✨
クリスマスも終わりましたね〜。我が家にも、今年もサンタさんは来ていきました😊子供たちにたくさんのプレゼントを置いて行ってくれましたよ✨
さて今日は、時事であるので、そのタイミングを逃さないように気になったことを少しだけでも記録しようと思います。
8,000万円。
これが何のお金かは、おそらくこのサイトを読みにこられる方の何割かの方には『あぁ、あれね…』と思い当たることでしょう。
ちょうど先週に報道があった、これですね(↓)
具体性がないとか、何より遅い、と不評であった日本のギフテッド児支援に向けて、ついに来年度は予算がついた!その額面が、8,000万円ということです。
ニュースをパッと見て私の心に浮かんだことは、
え、それって、何人分?笑
というものです。
いわゆるギフテッドと呼ばれる人が、仮に人口の中で1~2%程度存在するだろうとしたならば、我が国の津々浦々に対象者はラフに見積もって240万人程度となり、そのうち子供はどれくらい?今の人口比率で15歳未満は11.8%(少なっ!)とのことなので、子供だけなら30万人程度になる勘定です🤔
それをトータルで8,000万円で支援するってか!?やらない方がマシなんじゃないの?何が出来るの?そもそもやる気はあるんかいな!?
いやいや、一旦落ち着きましょう。ここで文句を言うても始まりません。
まずは予算がついたことには拍手したいと思います。進歩です🙌
それにちょっと他の記事も読んでみれば、こちらは今後の支援の在り方の検討をスタートするためのもので、すなわち支援の前段階の予算という扱いですね。
ただし、この8000万円という予算は、教育委員会や大学に授業づくりの検討を委託するものであり、本格的に全国で展開されるのはまだ先になりそうだ。
突出した才能を持つ「ギフテッド」支援に予算8000万円計上も額の少なさに「何ができるの?」「桁が2つ違う」より
なるほどです。
今後の健闘を祈りたいと思います。
ここからは私見になりますが、私が思うギフテッド児の支援の在り方について、それは昨今の報道の在り方と若干ズレているのかな!?と感じることも少しあります。
ギフテッド児って何なのか。
報道では、“特異な才能ある子供”とか“突出した才能ある子供”という表現が多用されておりますが、私はこれは誤解を招くと思います。それって、いわゆる“神童(child prodigy)”のことをイメージしそう。
ちょっと気になったので、ここで世界標準の“神童”の定義を探してみました。例えばこちらの論文では、このような記述がありました(↓)。
Considering the lack of a definition, Feldman (1993) proposed that a prodigy is ‘‘a child (typically younger than 10 years old) who is performing at the level of a highly-trained adult in a very demanding field of endeavor’’ (p. 188).
Can You Tell a Prodigy From a Professional Musician?
December 2017 Music Perception 35(2):200-209
DOI:10.1525/mp.2017.35.2.200
定義によれば、神童というのは『10歳以下のお子さんで、特に社会的な要求の高いフィールドで、高度に訓練された大人と同等の力を発揮する人』ということです。
なるほどね、それは大人にとって都合の良い感じです。(←敢えて嫌味っぽく書いてます。お気を悪くされたらすみません🙇)
もちろん神童と呼ばれるお子さんの中にはギフテッド児も多分に含まれているとは思いますが、この定義を読めばこそ、ギフテッド児の本態は神童とはまた別物であると分かります(保護者の方には首が取れそうなほど強く共感いただけると思いますが、どうでしょう?)。
ギフテッド児のほとんどの子は、未だ何者でもありません。既存の、ましてや社会的要求度の高いフィールドに目立つような実績など何もない。彼らはただ、生きづらい。現行の社会システムに馴染めていない。“そういう子達をどう支えるか”が、今は課題であるはずです🤔
何の才能があるかは今はまだ誰にも本人にも分からない。その才能が世の役に立つのかもわからない。ただ、その子を折れないように芽を摘まぬようにそっと大事に育ててやれば、いつか化ける子もいるかもよ(化けない子ももちろんいるよ)、そんな気持ちで育てましょう。
それがギフテッド児の支援の在り方になるのではないの?
それをこのような報道のされ方をされたのでは、“才能や実績ありき”で誤解されそうなところが私はいつも大いに引っ掛かっています。もうちょっと適した表現の仕方は無いのでしょうか。
また、ギフテッド児は秀才や優等生でもありません。
例えばドラえもんの出来杉くんは、あれは“秀才”という類の人です。彼はギフテッド児ではありません。または早くから英才教育を受けていたり、好きなことがあり物知りで思いやりもあり生徒会長とかを務めるお子さんも、それは“優等生”という類です。そういう子は、たとえ学校の授業がつまらなくてもそんな授業をする先生方をむしろ温かい目で見守れたりもしています。彼らのうちの何割かはいわゆる“エリート”と呼ばれるような大人になるのであろうし、きっと将来幅広い社会で大いに活躍することでしょう。
一方のギフテッド児というのは、いわばそんな優等生の対極にいるような子供です。
彼ら/彼女らはその脳構造に起因して、激しすぎる情動性や過敏性を内包しており『まぁいいか』という割り切った考えが難しい、IQが高いばかりに考えすぎてしまったり突き詰め過ぎてしまったり、精神年齢が実年齢よりも高くなってしまったり、人が感じないような小さな刺激も大きく受け取りすぎてパニックを起こしてしまったり、“心と体”、“自己と非自己”のバランスを取ることが難しい。
彼らはとても繊細で、不安定であり、難儀なのです。
何かあれば社会不適応、不登校へとまっしぐら。刺激が強すぎれば自己を守ろうとするために内面に閉じこもるかもしれません。彼らは発達障害と誤診されることもままあることが事実だし、精神疾患を抱えやすいとも言われています。
そういう子供が、ギフテッド児という類です。
出来杉くんを見た人は、絶対に誰も彼を発達障害を抱えているかもしれないとは疑いません。彼はやっぱり“秀才”でありギフテッド児ではないのです。
“ギフテッド”もまた障害なのだと私は思っています。
私もたまに息子の話題で言われるけれど、それは決して『すごいね』とか『将来楽しみだね』と言われるようなそんなものではありません💦
彼らは繊細過ぎて過敏過ぎて、放っておいては折れてしまう子供たちです。
だけど一方、彼ら/彼女らは人並外れた高い認知能力を持っている(と期待される)。それは彼ららしく伸びたならば、世界にイノベーションを起こしうることさえ期待される能力です。新しい価値や富をも生むかもしれません。国が予算をかけて彼らを守ろうとするリーズナブルな理由がそこにあります。
脆くて激しい彼らですが、興味関心を惹かれるものに出会いさえすれば、それが彼ら/彼女らの柱になってくれるのです。個々のそれに出会う時までどうか彼らを折れないように支えなければならない、そのせっかくの生まれ持った高い認知能力を発揮できるその日まで彼らの心身をできるだけ健やかに保持したい。そのための方策が、今、求められているのです。
すなわちギフテッド支援とは、新しい障害の特性に合わせた新しい特別支援教育を作ることだと思います。
どうか、今後、日本が目指す“特異な才能ある子供”の支援がどうか、大人にとって都合の良い神童支援やエリート支援にとどまらないように。
ギフテッド児が抱える生きづらさや苦しさを、どうか汲み取り和らげるための仕組みづくりを目指すものであるようにと願っています。
ちょうど、今期の朝ドラでは、今まさに“ギフテッド児”であろう子供が登場しているところです(↓)。この子は絶対にギフテッド児として描かれていると思います。居場所が得られず、めちゃくちゃ苦労をしています。
私は娘と一緒に毎朝朝ドラを見ることが日課ですが、先週の放送でそのお母様が『どうしてうちの子だけが…』と涙されるシーンは本当に印象的で私まで涙が出そうになりました。
私も何度も、そう思ってきたよ。なんで?どうして?って。我が家の場合は息子の高IQは遺伝であるのでそれほど大きく驚き戸惑ったりはしませんでしたが、それでも気持ちはめちゃくちゃわかる。
さらにどうか出来るならば、ギフテッド児のための新しい支援の構築は、それを育てる親の支援も含んでいて欲しいです。
国家予算の8,000万円でまずは何をするのかは分かりません。だけどどうか、そのようなギフテッド児の現状と本態に向き合った支援が構築されることを、私は強く願っています。
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