みなさんこんにちは✨
私の娘は場面緘黙症という、不安症の一つに分類される、社会的には主にコミュニケーションに関わる困難を有しています。
この場面緘黙症は、私自身もかつては当事者であり、娘が同様の困難を有していると分かった時には私は『まさかこんな私の資質が娘に受け継がれてしまうとは…』と大きく動揺してしまいました。精神科の主治医のところに駆け込んで、内服薬を処方していただいたこともありました。
私がこれほど大きく動揺したのは、私自身の経験からに他なりません。私はこの症状のために、子供時代には辛い思いをしてきたことも多かったと思っています。本当に本当に辛かった。
それでも私は指示は聞け、騒ぐわけでもなく集団行動もできるので、大人から見ればただの“おとなしい子”と気にかけられることもなかったのかもしれません。時代柄もあったでしょう、当時は場面緘黙という言葉は全く浸透してはいませんでした(今も不十分だと思っていますが)。そうして私は周囲の理解も支援も得られないままに、しかし私はなぜ自分だけが他の子のように話せないのかも分からなくて、極度の緊張下ではチック症も出現し、自分が悪い、こんな自分が恥ずかしいと、ずっとそんな暗い気持ちを抱えたままで育ってきてしまいました。
娘が同様の困難を有していると気づいた時、私が最初に思ったことは、私がしてきたあんな思いを娘には絶対にさせるまいということでした。
この世界の中で精一杯の支援を、私はその全てを娘の育ちに与えたいと願いました。そうして娘は5歳になる少し前に児童精神科を受診して、見識のある医師に出会い速やかに診断を受けました。情報を集め、娘の成長を共に喜んでくれる支援者や支援機関に出会えたことも幸運でした。
対応としては、親も子も一歩ずつ進んでいくしかありません。
親は障害の本態を正しく理解し、子供が安心できる環境づくり、子供の意欲を支えながらもキャパオーバーをさせないことが大切です(←難しいです本当に)。また、それまでは息子にばかり手を取られてきましたが、明らかに、娘と過ごす時間もまた増えたことも大事だったと感じています。
一方子供は、そのままの自分が素敵なのだと自分を認め自信を感じられることが大事でしょう。自信を持てと言われて持てる人はいませんので、自信の根拠に気づけるような環境づくりが大事だろうと思っています。
私の娘も、かつては発話がない緘黙(かんもく)の症状だけでなく、体の動きも制限される緘動(かんどう)の症状も時には強く見られました。医師とは当時、精神障害者保健福祉手帳の所持の検討についても話しました。
1年半後の就学に向けてあらゆる手を打ちたいならば、精神障害者保健福祉手帳の所持を検討しても良いでしょう。手帳の良いところは、場面緘黙に詳しくない方にも分かりやすく、配慮を受けやすくなることです。
手帳は審査があり誰でも所持できるものではありませんが、今の状態でしたらお持ちになっても良いだろうとは思います。
そうして今、娘の場面緘黙症への対応開始から1年半ほどが経ちました。
今では娘は、親はもちろん医師や支援者も驚くほどに明るくそして強くなってきたことを感じます。昨秋には、療育の一環として通い始めた幼児教室の勧めも受けて、私たちは娘にとって無理のないステップとしての小学校受験もまた経験させてもらいました。
小学校受験に関わる面接も、娘は何度もまさに無言無表情で通してしまったこともありました(←行って帰って来れたら100点という気持ちで取り組みました。しかし親は想定内でも、先方の先生方がえらく戸惑っておられたのは恐縮でした🙏)。しかしある日のイベントでは、娘の声がとても小さいながらもポツポツと、そしてスラスラとも出るようになり、その直後の娘が不思議そうにこんな話をしてくれたことはとても印象的でした。
わたしの喉には扉があるの。いつもわたしの声はそこから出ていかない。
だけど今日はね、喉の扉が『パカッ!』て開いたのが、なんだかわかる気がしてきたの。わたし、もうお名前とお返事はどこでも言えると思うんだよね。
その言葉から、私は彼女の多大な努力、確かな心の成長に大きな感動を感じました。娘は幼いながらもしっかりと自分と向き合い、本当によく頑張ってきたのだと、私は娘が心から誇らしいと深く深く思いました。
娘の歩みは順調なのだと思います。とはいえ彼女は不安症を乗り越え始めたばかりのまだ6歳、いわゆる“普通の”お子さんのようにはいかないことも多々あります。
その顕著な一つは、挨拶です。
娘も強くなってきたとはいえど、今も彼女は口頭での挨拶ができたことはおそらく一度もありません。
これは本当にそうなのです。私自身もそうでした。おそらく場面緘黙のお子さんの多くがそうなのではないかと思いますが、いかがでしょうか?場面緘黙においては、“挨拶”=一番最後の難関の壁となるケースは多いだろうと感じています。
私にも、覚えがあります。私自身の記憶の中にも、『挨拶は特に苦しいもの』という感覚が今もなお残ります。
『こんにちは』
ただそれだけの言葉なのに、なぜだかそれが喉がギューーッ…と詰まってしまって出てこない。
幼かった私もそれはとても不思議でした。子供なりに色々と考えたこともありました。まず『こ』だけ言う、それから『ん』『に』『ち』『は』と言う。そうしたらそれは挨拶じゃなくてただの音のつながりだから自分にも言えるんじゃないかと試そうとしたことも覚えていますが、しかしどうやらそういう次元の話などではなかったようでやっぱり言えず、ひどく落ち込んだことも覚えています。
分かっているの、頭では。挨拶が言えた方が良いことなんかは当たり前だと分かっています。私だって言いたいの。だけどなぜだかその場面に際しては、喉がギュッと苦しいほどに詰まってしまって息苦しささえ感じます。それと同時に頭の中には悔しい気持ち、恥ずかしい気持ち、なんで私だけ言えないの、きっと私が悪いんだと、そういうものが頭の中にぐるぐるぐるぐる高速回転で渦巻いて、それでも言葉は出てこないままに頭が混乱していくような感覚です。その時、外見上の当事者は焦点の定まらない目で殻の中に篭ったように動かなくなっているか、もしくはただ静かに涙を流しているだけかもしれません。
なんで泣くの?
それが分かれば苦労はしません。当事者にもわかりません。そうする他ができないという状況です。
それが場面緘黙というものであり、それこそが、私や娘が経験させられている場面緘黙症という障害の困難の一部なのです。
しかしながら、世の中には『元気に挨拶!』という“良い子像”もまた存在するということを感じざるを得ない場面が度々あります。
幸いにも、娘が0歳から通ってきた保育園では娘を本当に温かく理解をしていただいており、毎日の登園時や降園時には言葉による挨拶の代わりに先生との“タッチ”で手をパチーンと叩き合うことや、視線を交わすことを娘の挨拶とさせてもらい、娘はそこで自分が確かに受け入れられているという安心を感じてくることができました。
また、娘は5歳の秋から幼児教室に通ったことをきっかけに、みんなと一緒ならば声を揃えての挨拶であれば口を動かす→小さな声が出るようにもなりました。
今では娘はお遊戯会の劇でもみんなと一緒であればセリフを言えるし、日々のお当番では給食の時になんと一人で前に出て『いただきます!』の号令をかけられたとも聞いています(←挨拶以外は言葉が出るという意味です)。
しかし今なお、娘が一人だけで挨拶をしなくてはならない場面は難しい。表情は強張り、喉が詰まったように苦しそうな様子を見せることが多いことが実際です。
この秋冬には、娘はいくつかの小学校へ小学校受験を経験し、いろいろな場所でたくさんの大人に会いました。今の娘は初めての場所、人とでも私が付き添っている中では自然な振る舞いはできますが、そこでもやっぱり挨拶だけは難しかったと思います。
ある学校では、このようになさる先生にも出会いました。
こんにちは。
こんにちは、ペコリ(お辞儀)
(合わせて深々とペコリ)←娘はとても素敵な姿勢でのお辞儀はよく身についています。
(娘を見て)あれ?こんにちは?
(さらには娘の顔をぐっと覗き込んでこられてゆっくりと)こ〜んにちは〜?
・・・・・
(やめてくれー…挨拶ができない子だと「❌」を付けてもらって構わないから、一度だけで流してやってはくれまいか🙏しつこくされると娘が小学校そのものを怖がってしまいそう…😭)
ええ、分かっています、仕方がないのは承知です。
きっとこれは学校の方針であろうし私たちがそれに沿わないだけなのですが、しかし私はこの時正直、『大人相手ならこんな聞き返すようなことをするだろうか?』とも感じたし、子供を測る元気に挨拶!という良い子像の大きさを改めて実感したと思います。
人に良い印象を与える“やり方”が合ってないってことなんですよね。
そう。ただ単にその方法には合っていないというだけです。娘は確かに今はまだ挨拶というものが難しいことが実際ですが、それでも彼女は頑張り屋さんで真面目で素直な良い子です。今までだってこれからも彼女は我が家の自慢の娘。
元気に挨拶!という良い子像には沿わないけれど、だからといって娘が悪いわけでも劣っているわけでもないのだと私はよく知っています。
確かに挨拶は便利です。私自身も子供の頃は挨拶はとても苦しいものだったけれど、出来るようになって仕舞えば簡単で、ニコッと笑顔で『こんにちは』と言っときゃ非常に無難でただそれだけのことにしか過ぎません。
そんな”ただそれだけのこと”にしか過ぎないことが、良い子像として社会の中にあまりに浸透しきっているのです。
だけどそれは、本質なのか?
そういうものでもないでしょう。
そんな社会の中に浸透している“当たり前”を変えることはできないかもしれないけれど、うちはうち、よそはよそと私たちは今の娘の少しずつの成長を心から喜びながら、娘が娘なりの良い印象の与え方を形作ることを応援していくことが我が家流で素敵だと、今のところはそう考えているのです。
ーーー書籍紹介ーーー
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いずれも娘の支援に役立ったと思われる書籍の一部です。
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