みなさんこんにちは✨
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つい先日、私は全く違うと主張したい、発達障害について大いに間違った見解を持つ人がいることを知りました。
今日はそれを全力で否定すると共に、発達障害児の実情についてを主張しておこうと思います。
発達障害を抱える人は、本来はとても素直で純粋なのです。字面の通りにしか受け取ることができません。それが本人の生きづらさであり困難であることを理解してもらえればと願っています。
なぜ、そのような間違ったイメージが付いてしまうのか。安易な報道はしないでほしいと思っています。
待ち合わせに、誰も来ない
ある日、学校が早く終わった日に
12月後半のある平日の話です。
この日息子は小学校が午前授業で、午後早い時間に帰宅しました。
そして帰るなり、大きな声で、
お母さん!帰りがけに友達に遊びに誘われた!○時に遊びに行っても良いでしょう!?
と叫びました。
もちろん私だって本音としては遊びに行かせたいことは山々です。だけど息子は通塾しており、この頃はすでに冬季講習も始まっていて、土日平日問わず授業の予定がビッシリなのです。ほぼ毎日に塾の授業があるために、課題も毎日こなしていかなくてはなりません。
そんな予定があるのに遊びに行くって、あなた一体どうするつもり!?私は大いに混乱しました。
だけど息子は譲りません。なんとしても遊びに行くのだと、それに向けて全力を尽くすのだと言い張ります。
お昼ご飯を食べずに宿題をやれば、もしかしたら間に合うかもしれない。
ねえ、それが終わったら行っても良いでしょ?僕、がんばるから!
遊びに行きたい気持ちはわかった。
まずはじゃあ、今日までにやらなきゃいけない最低限は取り組もう。それでお昼ご飯も食べて、余裕があったら遊びに行くことを検討しよう。
嫌だ!絶対行くんだよ!絶対に終わらせるから!
息子の頭にはもう、遊びに行くことしかありません。確かにそうです。息子は小学5年生。そして私たちが住んでいる地域は、7割強の小学生が中学受験をするという地域柄です。息子の学校の友達もみな多くが通塾をし、本当に毎日忙しく過ごしている子供らなのです。たまの学校が早く終わった日くらい、みんなで遊べたら最高だよね。
息子はもう、本当に大騒ぎをしながら、何とか遊びに行く約束を達成しようと並々ならぬ集中力で宿題を片付けた上で、塾の課題も“最低限”に取り組みました。
誰と、どこで遊ぶのかは言っておいてね。
それに夕方から塾があるから、その前には必ず帰ってこなくちゃいけないよ。そして、帰る時間を忘れてはいけないからお母さんが迎えに行きます。携帯電話を持っていって、必ず連絡が取れるようにしておいて。
それが守れるなら遊びに行っても構わないよ。
誰とっていうか、クラスの何人もが来るみたい。僕も!それに誘われたの!
迎えにこなくて良いよ、お母さんはオバサンだから見られたら恥ずかしいから!(←コノヤロウ!だが、そう言う年頃であることは良く分かるので苦笑いで済ませてやろう。)
そう言って息子はとても嬉しそうに、しかしものすごい集中力で課題を終えて、かき込むように昼食を取り、みんなとの待ち合わせ場所だというあるタワーマンション近くの広場に向かって飛び出すように駆け出して行ってしまいました。
塾の課題はやっていったけれど、それも本当に“最低限”です。
昨夜も息子は、
明日学校が早く終わるから、明日にする!
といって英語の課題をやらなかったのです。やるべき課題は溜まっています。先々のことを考えるならば、学校が早く終わった日にこそ少しでも進めておきたいところでした。
だけどそれも仕方がないです。
友達が決して多くない息子にとって、クラスのみんなで遊ぶ会に誘ってもらえるなんて絶対嬉しいに決まっています。息子の気持ちもわかります。
勉強は溜めても命が取られるわけでもありません。スケジュールについては後で私が調整すれば済むと割り切る。友達みんなも忙しいのに、こうして遊べる機会は貴重でしょう。息子はそんな貴重な機会をしっかり楽しんできたら良いのです。喜んで帰ってくるに違いない。きっと時間も守ってくれる。
そう思いつつ、私も家事などしながら午後の時間を過ごしていました。
悲しい顔で帰ってきた息子
しかし息子が飛び出していって1時間ほどが経った頃。
ガチャンと玄関の鍵があいて、息子がひょっこり帰ってきました。
あれ、早かったね。
そう声をかけた私に対して、息子は顔をあげることもなく、
どれだけ待っても、誰も1人もこなかった。あんなに頑張ったのに、僕は全部無駄なことをしたのかな…
ボソッとそれだけを言って、まっすぐ自室に入っていってしまいました。
私はとても信じられないし息子の気持ちを思うととてもとても辛くなって、そっとしておけばいいのか、だけど何か声をかけて慰めたい。
迷ったけれど、私は息子の部屋をノックしました。
息子はカーテンも閉めて薄暗い中でベッドでお布団を頭からかぶり、ジッと丸くなって固まっていました。
みんな、おうちの用事があったのかもねぇ。
それとももしかしたら、先に来た子が盛り上がって、場所を移動しちゃったのかもしれないね。とにかく、何があったのかはわからないけれど、すごく残念だよね。
だけどあなたは出来ることをやったのだし、約束も守ろうとしてとても偉かったと思っている。そんなあなたのことを私は立派だと思っているよ。
私は息子のベッドに腰掛けながら、息子をポンポンと叩きつつ、そう声をかけていました。
だけど息子が言うことが、私の心をさらに締め付けるような思いがしました。
うん、残念だった。寒かったし、どうして誰もこないのかがわからなくて悲しくて悲しくて辛かった。
だけど、僕は誘われた時に、『遊べるかどうかはお母さんに聞いてみないとわからない。それでも行けたら行くからね。』って言ったんだよ。
だから、もし僕が来ていなくても、来ていた人たちは困ってないと思うから、それは良かったと思うんだよね。
なんてことだ。息子はなんて、まっすぐで素直な子供だろう。どうしてこんなに良い子が、こうして辛い思いをしなくてはならないのかが分かりません。
やっぱり誰と遊ぶのか、きちんと名前を聞いておくべきだった。そして私がそちらの親御さんに連絡をして、約束の確認をしてから送り出せば良かったのに、もう高学年だからと怠った。私にも不手際があったのに、息子だけが辛い思いをしているなんて。
私もとても悲しい気持ちで、しばらく息子と息子の部屋で何も言わずに座っていました。
現代っ子の待ち合わせは至難の業です
これは息子に限った話ではないようです。都心の子ではこのような経験が多いのだという話をあちこちで聞くことも事実です。
友達から放課後に、または土日などに遊ぼうと言われて待ち合わせ場所に出かけていった。
だけど友達は現れない。
そんなことがこれまで息子にも、何度も何度もありました。
私が育った昭和の頃、田舎では。
友達の自宅にはみんな『家電』があったし、クラス内では連絡網も配布されて約束はすぐに確認できました。誰がどこに住んでいるかも分かっていたので、友達が来ないとなれば家に訪ねることもできました。
また、塾に通っている子も習い事をしている子も少なかったので、誰とも遊ぶ約束をしていなくても近所の広場や公園に行けば誰かかしらに会えました。
だけどそれは昭和の話。
都心の現代っ子の待ち合わせは、とても至難の業なのです。
その本質は、どうやらこんなことらしい。
子供同士は遊びたいので気軽に口約束をしてきます。
だけどおうちに帰るとおうちの人が、『今日は予定があるから遊べないよ』とNoと言った。そうするともう、子供同士で連絡する手段はありません。だから待ち合わせが実現しない、ということのようです。
共働きの核家族、日々の予定も分刻みでスケジュールされているおうちが多いのです。我が家もずっとそうでした。帰りに友達と遊びたくても、多くの子供が塾や学童保育に行かねばならぬことには変わりはないわけ。無理も無いことだろうと思っています。
親が仕事をしている家が多いためか、子供と親の“連携”もうまく取れていません。
息子が低学年の頃、何度も何度も待ち合わせをするのに現れない子がおりましたので、私は状況を見定めようと息子に付いて待ち合わせ場所まで一緒に行ったことがありました。
その日も、待ち合わせ時間になってもその子は一向に現れませんでした。
少し時間が経った頃、『来ないね、帰ろうか』と促す私に、息子はやっぱり強い拒否反応を示しました。予定変更が苦手なのです。彼は自分でした“約束”を、放棄することはできない子なのです。
息子は頑として動きません。何十分も経った頃、そのお友達がその子のお母さんと一緒に通りがかったのです。こちらに向かって手を振って。
あ!来たよ!待ってて良かった!
息子は喜びましたが、そのお友達は、『今から歯医者なんだー、バイバーイ』と言って通り過ぎて行ったのです。
もちろん私はそのお母さんを追いかけて声をかけました。
『今日、ここで遊ぼうと誘われたので息子はずっと待っていたのですが、歯医者というのは前から決まっていたのですか?』
と。
すると向こうのお母さんが言いました。
『えっ!?遊ぶ約束があったなんて、聞いてませんけど!?』
低学年であれば、言ったことを忘れたとか、そういうことはあるでしょう。次回からはこちらもそのつもりで気をつけておけば良いだけです。
このお子さんとは、何度も何度もこういうことがありました。後で聞いた話では、その子としては『遊べたら遊ぼう!』というだけの気持ちだったということです。それでも待ち合わせの日時も場所も決めておいて、息子もそれに注力して準備をして過ごしています。律儀なのです。それではあんまりなのではないかと思います。予定が全部流れた方の気持ちなんかお構いなしだというのでしょうか?
この日も息子は落ち込みましたが、たまたま別の仲良しの友達にバッタリ会って一緒に遊べると言うので何とか挽回できました。しかもこの子もまた別の友達に約束をすっぽかされた帰りだったという話を聞いて、一体現代の子はどういう考え方をしているのだろうと不思議に思ったものでした。
勘違いやすれ違い。そういうことも仕方がないとは分かっています。
だけど息子はもう高学年。4月には6年生になる子供らなのです。
今回の件は、小さかった頃とはまた別の性質を孕んでいると思えてきました。
“発達障害”への完全な誤解
実際どうだったのかはわからないが
おそらく今回も、クラスの何人かで盛り上がって放課後に遊ぼうと約束したのは事実だろうとは思います。子供たちはみな行く気だったし、楽しみにして約束したのだとは思います。その時は。
だけどみんな、塾や習い事で忙しい。
この日も、推測ですが、おうちに帰って親御さんに聞いてみたら『今日は無理だよ』と言われたのだろうと私は解釈しています。実際、我が家もそうでした。この日も本来の予定が詰まっていたし、それを無理に調整して(投げ出して?)息子は飛び出して行ったのですから。
だから私は、実際のところは分かりませんが、よそのお家もきっとそういうことだったのだろうと想像します。そしてその時にはもう、連絡の手段はありません。子供達にはどうしようもないことなのです。
もしくは。あって欲しくはないですが、息子に対する嫌がらせとか、そういうことが起こっている可能性もチラリと頭をよぎりました。しかしこれは普段の学校生活の様子を知らないことには分かりません。今のところ息子から学校生活に問題があるとは聞いていません。近いうちに担任教諭にそれとなく聞いてみるべきと判断し、いずれ確認すべき事項であることを頭に置いておきました。
だけどさぁ。やっぱり今回はどうかと思う。
流石にみんな、高学年なわけでしょう?責任感とか、ないのだろうか。
約束に向かえないとなったらさ、せめて待ち合わせ場所に一瞬来るなり、声をかけにきてくれたって良いんじゃないの?って思えてきます。複数人だから『誰か来ているだろう』と気が緩んだのかな。息子に聞いても、
友達の連絡先なんて、知らないよ。どうしようもないよ。
と、やっぱりお互いに連絡を取り合う手段はなさそうです。
私ならば。
約束を守れないことが気になって気になって仕方がないです。平気ですっぽかせる人の気が知れない。
息子もそうです。
遊べたら遊ぼうとか、そんな言い回しは彼に理解はできません。
タスクが一旦組み込まれたら、なんとしても達成しないとパニックの元にさえなるのです。だから息子は全力を持ってその約束に挑んでいます。律儀なのです。それが彼の発達障害の特性であると言えるのだろうと思っています。
だけど今回はあんまりだ。
私はそんなモヤモヤを抑えられず、ふと、インターネット上には同様の事例についてたくさんの情報があるだろう、そして子供にはどんなふうに言葉をかけてやったら良いのだろうと調べるためにもちょっと検索をしてみました。
私はそこで、びっくりするような言葉に出会いました。
高学年ですっぽかすのは『発達持ち』の子供だけ
パッと見て、待ち合わせが実現しないことはやっぱり現代っ子には多く発生する“あるある”なのだと分かりました。
だけどそれも低学年の場合と、高学年になってからだとだいぶ事情は違うみたい。低学年の場合は『忘れちゃってた』『寝てしまっていた』などが理由としては多いようだと分かりました。私もそれは多々経験したことでした。
だけど高学年ではやっぱりそれは確信犯か、『発達持ち』の子供くらいしかすっぽかさないでしょという記述を見た時、私はとても悲しくて複雑な気持ちが湧いてきました。
私はこれに、言い表せない、とても大きな違和感を感じたのです。
まず、『発達持ち』ってなんやねん。
いや、分かりますよ。発達障害を抱えているお子さんのことを指すのでしょう?だけどその言い方は見下しているし、とても侮蔑的な言い方です。
それに、高学年にもなって約束したことを守れない(=人としてだらしがない)のは、発達障害が原因なのだと言ってるよう。
こういうとこだよ。
発達障害のイメージが、明らかに実際と大きく違うようにねじ曲げられて悪くなり、当事者を苦しめているのはこういうことなの。
受け入れられない。信じられない。そんなことを、インターネット上とはいえ発言する人がいるなんて。
それが私はとても悲しく、かつ強い憤りを感じたのです。
発達障害を抱える人は、字面の通りにしか受け取れないから辛いのです
人間として、至らない。
約束したことも守れない。
それは断じて、発達障害とは無関係。それは全て発達障害とは全く別の、ただの“その子の人間性”と言うものです。
至らない人間性を、発達障害に押し付けないでもらいたい。
今日はそれを、強く主張したいと思いました。
私は息子を見ていて知っています。
発達障害を抱える子供は、ものすごく真っ直ぐで素直で、まさに言葉の通りにしか受け取れません。だから曖昧な表現に振り回されるし、辛い思いをすることも、困難を感じることもあるのです。
息子は予定の変更が苦手です。それは彼にパニックを引き起こすものであり、本人にとっては強迫的に恐怖なのです。私もそうです。やると言ったことを出来ないとなれば、それは私にパニックに近い混乱を惹起します。
事実、息子は今回も『約束したから!』と言って大騒ぎで待ち合わせ場所に飛び出していって、ずっと友達を待ちました。発達障害を抱える子に限って、『約束したけど、行かなくて良いや』なんて、とてもじゃないけど思えるはずはないのです。
そんな『発達持ち』の人間を“振り回す方”は、一体どう思っているのでしょう。
人の気持ちがわからないのかな?
待ちぼうけする辛さを知らないのかな?
そうなるはずなのにならない、全く見通しが持てない中でパニックになりそうな心を耐えて、ずっとそこで待つしかできない『発達持ち』は、そんな『発達持ち』という表現をもって見下されなくちゃいけないものなのでしょうか?
いい加減なのは、どっちだよ!何も知らないくせに、酷すぎるよ!
私は大きく憤りました。
人間性の不出来をもって“発達障害”と決めつける無教養な風潮は、一刻も早く改めてほしいと思っています。
なぜそのようなイメージが付いてしまうのか
最後に、なぜ“人間的な不出来=発達障害”という間違ったイメージが形成されるかについて考えておこうと思います。
一つはやっぱり、発達障害はメディア等の報道により時には“びっくりするような人間像”や“異質で異端な特性”などがセンセーショナルに取り上げられるからだろうと私は思います。
以前に友人が、あるニュースで『発達障害を持つ子供が予防接種を受ける際にあまりの剣幕で大暴れをする様子が報道されていたのを見た』と言っていました。
ああいう報道が、発達障害児のイメージを損ねている。その子だって暴れたくて暴れているわけではないはず。パニックを起こさせる環境が悪いのであって、もっと工夫が出来るはず。
ましてやその様子だけを、さも恐ろしいもののように報道するなんて!
そう。
これまではどうしても発達障害が『どれほど変わっているか』『どれほど扱いづらいか』ばかりがセンセーショナルに報道されてきた面があるのです。それらが全て、当事者のイメージを大きく損ねています。
大人であれば、発達障害を抱える人が職場でどうしても“困った人”になっているという話ばかりが取り上げられます。しかし私はこのような報道においては、それは発達障害の特性ではなく、そこから派生する身体症状、うつや不安といった“二次障害”の方が大いに問題であるケースも散見されるのではないかと感じています。
発達障害の特性だけなら、それは対処や工夫を凝らしながら、環境を選んだり周囲の人に協力を得ながらその人なりに楽しく暮らしていけるものなのです。そしてそれは決して人間的に不出来であるとか悪意があるとか、ましてや劣っていると言われるものではありません。
私自身も、幸い、二次障害をなんとか免れて育つことができました。おかげさまで大人になってからの私の生活は楽しかったし充実していると自負しています。今も最愛の子供たちを育てさせてもらって幸せです。だけどそんな“順調で充実した生活を送っている発達障害者”の話はメディアでも全く取り上げられません。きっと興味本位で見る人の目を惹かないのでしょうね。
そうして“二次障害を伴う特に複雑なケース”ばかりがメディアで取り上げられるので、発達障害のイメージは悪くなったと言えるでしょう。
このような悪いイメージは、当事者自身の尊厳にも直接大きな影響を及ぼします。
『小学校で先生が子供に虐待をした』
例えばそういうニュースが流れた時、多くの方はきっと『酷い先生がいたもんだ!』と憤慨すると思います。
だけどもし、その被害者が発達障害児だったら?
『あ〜、先生側にも、仕方のない事情があったのかもなぁ』って思う人が出るんじゃないの?
発達障害児は癇癪を起こして大暴れする。だったら先生も自衛しなくてはならないし、ある程度力が入るのは仕方がない。
何も知らないのに、そんなふうに思う人がきっと出てくると思います。
その子のパニックは、“泣きながら動かなくなるタイプ”だと知っていてもそんなことが言えるでしょうか?うちの息子もそう。癇癪を起こせば自傷的に暴れたり叫んだりはするけれど、他害はしません。
それなのに、どうして発達障害児は虐待を受けても『仕方ない』と言われてしまうことになるのでしょうか。
そんな無根拠なイメージなんかで発達障害を抱える人は“尊重しなくて良い”のだとか、“酷い目にあっても仕方がない”のだとか、決してそんな風に思ってもらいたくありません。
発達障害に関する理解が、正しく広まることを願っています。
長くなりました。
少しでも、気持ちが共有できたら幸いです。
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