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すすんでやろうとやるまいと

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10歳・小5

みなさんこんにちは✨

今日も当サイトを見に来てくださりありがとうございます✨

今日は子供の学びの”主体性”について思ってしまったところなどを徒然と書いてみようと思います。

息子が通う小学校は前期/後期の2期制のため、息子は10月半ばに前期の“通知表”を担任教諭から受け取ります。

私はその通知表を、改めてまじまじと眺めていました。

すると中に『すすんで』というキーワードが散見され、評価項目の実に3個に1個が“学習の主体性”を評価する項目であると気づいて私は大いに驚きました。

息子の通知表。評価項目は1/3もが学習の主体性に関することだ。

これって昔からこうだった?それとも時代の流れなのかしら。

だけど私は、これってなんだか“フェアじゃない感”がどこからかモヤモヤと湧いてくるのです。

つまり私は、すすんでやろうとやるまいと、所定単元の学習を理解出来てりゃそれでOKなんじゃないんですか?と言いたいわけ。

 

もちろん“学習態度”を評価することも大切だと、頭で理解することは可能です。

だけどそれが3個に1個もの高割合だなんて、高すぎないか?

私はそう驚いたとともに、息子の個性(特性)を想うと彼はその評価軸には乗れないことが目に見えるのでいっそうモヤモヤとした気持ちが湧いてきます。

今日はそんな気持ちを記録しておこうと思います。

わたし
わたし

学業の習熟度で評価することこそが最も公平だし、それが適正な競争を生み好循環を起こすのではないかしら?って私は思うのですけどね。

評価項目の実に1/3が『主体性』

そんなに主体性が評価されているだなんて

今回、息子の通知表をまじまじと眺めていて、小学生はこんなにも多くの割合(全体の1/3項目)で『主体性』が評価されているなんてと私は正直驚きました。

ところで、『主体性』というのは少し曖昧さがある言葉ですよね(←私が無教養なだけですが😅)。意図の相違があってはいけませんので確認しておこ。

ちなみに辞書では。

主体性:自分の意志・判断で行動しようとする態度 とされています。それを英語で言えば“independence”となるらしい。

Independenceか。知らんかった。でもすごくよく理解できた。

つまり小学校では『自分の内から出る意欲や考えにより、すすんで学習に取り組む姿勢』が高い割合で評価されるということか。

う〜ん、なかなかイメージがわかない。少し解釈が難しい。

 

今一度、その“通知表”を見てみます。(息子の成績はお見せするに耐えませんので割愛します、笑)

通知表の評価項目の抜粋

う〜む。やっぱり多い。

ピンクの下線で示したところ、通知表の各科目の全てにおいて、3個に1個が『すすんで』とか『生かそうとしている』とか『主体的に取り組み』という記述です。

その数、実に1/3。しかも全科目って、多すぎないか?

 

理科に至ってはさらに細かい条件が要求されて、『友達とともに粘り強く問題解決に努め』とありますな。

体育だって具体的な言葉で、『協力、公正などの態度を身につけ』と付されています。

どういう状況?

理科は、1人で解っちゃいかんのか?

『友達とともに』の部分は敢えて書くほど必須なの?そんなに大事?どうして?

知り、考え、理解して納得する。

十分に1人で完結可能な作業であるように思うけど。

どうして友達とともに粘り強く問題解決に努める必要や、それにはどんな意義があるというのだろうか。

さらに学んだことを自身の生活に生かそうとするもしないも全くその子の自由だし、生かそうとするのは大人になってからかもしれないじゃん。時期も自由のはずだろう。

それにこの書き方だと、“友達”がいない子は一体どうすれば良いのだろう。友達を、“作る”も“作らない”もその子の自由。ともに粘る友達がいないとそれで3割を占める項目で減点になるのだというのかしら?それは友達がいないから?聡明な子供は1人でも十分問題解決していけるのに、世の中には色んな子がいて当たり前なのに、そこを評価しようとするのは軽率すぎない?ひどくない?

と、私は友達があまりいない且つコミュニケーションが苦手だった私自身の子供時代を振り返り、なんとなく遠い目で息子の通知表を眺めてしまって言葉を失っていたわけです。

これは子供の頃の私にはとても達成できない無理難題だ。自己肯定感も下がるわなぁ。

あとさ、体育もだね。

体育は、俊足の子が協力せずにぶっちぎっちゃいかんのか?

協力というのは集団競技か。例えばバレーボール。協力してパス回しを上達させることなのか。そこで経験者がチャンスをとらえてスタンドプレーを多発するのはOKなのか?NGなのか?

それに、公正?

『公正』という言葉はここで何を指すのだろう?

ズルを認めないぞという気持ちを持つとか、そういうのかな。でも学校の体育でズルって起こる?どういう状況?そもそも子供らが生きる世の中自体が公正か!?

私が思う『公正』っていう言葉とは、私見ですが、客観的な観測者がやや上からの目線で公平性を保とうとすることを表すようにも思うのですが、そう考えるとこの評価軸はますます私には分からない。あ、試合の審判のことかな。上手に審判ができたらマルとか?

 

なんてね。

他にも色々突っ込みたくなるけどこの辺でやめとこう。こんな面倒くさい人間ですみません😅

私はこの通知表を読んでついこんなことを考えてしまうのですが、個人の勝手な徒然だと思ってどうぞご容赦いただければと思います。(←そんな私に多角的なご意見は常に歓迎しています。コメント欄も活用してください。)

 

話を戻そうと思います。

それでもね。今日取り上げたいのは全体に『すすんで』という言葉が目立つということ。

これに対し、すすんでやろうがやるまいが、出来てりゃいいと私は思う。 

そういうことです。

 

自分が達成出来ればそれで良い。そこには必ずしも興味や積極性が伴うわけではないけれど、一応想定される達成度には達しているという子供がいるとして。

それは十分、良い気がするよね。頑張ってるねって思うけど。

だけど通知表から見えてくる今の日本の公教育の方向性は、『すすんで』、すなわち自分の内面から湧く意欲において周囲からも観測可能に働きかけをする態度自体を求めたい。そんなふうに見えてきます。

だけどその『すすんで』やるかどうかって、もう、“個人の裁量の範疇”の話なのだと思います。

それを評価軸に入れてくるということは、そんな態度を取らない(取れない)子供を傷つけるのではないかと心配です。

私には、その“すすんで”というのがどのような態度なのかがまだよく分かりません。それで少々混乱してしまっています。

『自分が出来てりゃ良い』ならどんなに息子は生きやすいだろう

私は自分自身の小学生の時の通知表というものにあまり良い思い出が無いこともあり、自分の通知表の詳細などを正確に覚えているわけではありません。

だけどね、これはもしかしたらもっと大きくなった中学生以上のことかもしれないけれど、成績というものにはもっと『テストの点数(=学習単元の理解度)』が評価されてたように思うのですが、

そういう評価は、小学生にはしないのかしら?

 

どうしてしないの?学業の目標習熟度に到達するって、一番大事なことじゃない?

今の小学生はすごく勉強重視だし、彼ら/彼女らの中にはそんじょそこらの大人と比較してもよほど学力が高い子だってゴロゴロおります。

勉強が出来ている子供そのものを、もっと素直に評価したら良いんじゃないかと思うのですが、そう考えるのでは不足なのかと私はとても不思議です。

 

私のそんな考えは、小学校がもしもその『出来てりゃOK』という評価軸であったならば、私の息子はきっともっと生きやすいのにと思うからです。

例えば当サイトでも以前に書きましたが、息子は“日々の宿題”に取り組むことをとても苦手としています(↓)。

“繰り返し”とか、“コツコツ”というものを息子は生理的レベルで無理っぽい。

さらには『興味がないから』という理由もあるでしょう。

これまでの観察と考察により、息子は興味が湧かないものに時間を費やすことが本当に本当に無理らしいことがわかっています。それが彼の特性の一つなのでしょうね。“嫌だけど渋々やる”とか、そういうことは本当に彼には無理らしい😩

息子はまさに、『すすんで』とは真反対の子供なのです。評価軸には合いません。大変辛いところです😩

 

だけど息子は、宿題はあまりやらないくせに、学業が疎かであるというわけではありません。

なんならまぁまぁ出来る方。

学校のテストでは十分な点数を取ってきます。だけどテストで高得点を取っているのに期末の評価がそれに連動しないため、彼の中でのモチベーションや自己肯定感が上がってきません。そんな悪循環に落ち込んでいるようなフシもあるので私は心配をしています。

そう。

このような評価軸による、すなわち得意不得意を考慮しない成績評価はそれから外れる子供の自尊心を伸ばしづらくし、さらなる向上心を挫くことさえあるのではないかと私は心配しています。

だから私は、学業の習熟度で評価することこそが公平だと思ってる。

その公平な評価こそが全体に適正な競争を生み、全体の学習に好循環を起こすのではないかと思うのだけど、どうしてそれじゃいけないのかなぁと私は不思議に思うのです。

『勉強はできるケドね〜』と言われる『ケド』は、実は不要ではなかろうか。

息子は息子、それで良い

だけどね、まぁ良いですよ。

最近では私も息子の母親として学んできたし、ずいぶん成長してきたと思っています👍

今の私はこう考えることが出来ています。

学校というのはあくまで教育を受ける一箇所にしかすぎないわけ。

最も大切なことは、親がその子にどう育ってほしいかをしっかり見通し、責任を持って導くこと

 

小学校は小学校😊

あなたはあなた😊

親がそう教え、信じて導いていけば良いだけなのだと、今の私は知っています。事実、私がそう学んだ頃には息子の態度もわずかに軟化した気がします。私も今まで、無意識のうちに息子に押し付けていたのでしょう。『望まれるように振る舞う』ことを。

 

だけど他人の評価軸なんかには、なんの意味もないのです。

そう思えばまぁ、通知表も大したことないかと思えてきたよ😅

とりあえず小学生でいる間はね、大丈夫。

息子はいつでも自分らしく居れば良いし、あなたはそのままで本当に素敵なんだよと都度伝えていきたいと思っています。

 

でもさー。公立中学校に進学したら“内申点”の制度は確実に息子に実被害を及ぼすのでまた考えなくてはなりません。

ノートの取り方、提出物、生活態度。そんなことが“内申点”になっていくなんて信じられます?絶対無理だよ、息子にも、私自身も無理だった😩

それはまた、別の検討事項になってくるだろうと想定だけはしておこうと思います。

教師の友達にわかりやすく教えてもらった

まぁそんなふうに結論を得かけていたのですが、せっかくなのでここは“先生”の意見を聞いてみたいなと私は思い立ちました👍

そこで友達にすぐLINEして、彼は長く小学校教諭を務めているので、

私

この“すすんで”という評価軸はさ、どういうことなの?

と率直に聞いてみることにしたのです。

 

ちなみにその友達は私が16歳の時からの付き合いで(←長っ😲)、人間的にも大変出来たヤツ(←上からw)で私はとても頼りにしています。

彼には我が家の“計算ドリルやらない事件”でも意見を求めることや、これからの公教育のあり方についての書籍を紹介してもらうなどいつも助けてもらってばかりです(↓以前の記事をご参照ください)。

私

ねえ、通知表の評価項目ってさ、全国共通なの?

小学校教師の友達
小学校教師の友達

大筋は共通。

私

進んでだろうが受け身だろうが、出来てりゃ良いと私は思うんだけど、それじゃ何が不足なの?

小学校教師の友達
小学校教師の友達

すすんで、というのは授業で発言するとか手をたくさん挙げるとかではないんだよ。

やる気があれば良いだけでなく、自分で高めたり深めたりするために必要な着眼点を見つけて学習に取り組む、みたいなこと。

 

この項目は確かに、良い評価をもらうのは3つの観点のうち一番難しいことなんだよね。

私

なるほどね。息子は学習は表面的には理解してそうだけど、現状で興味がないものについては全く深めない態度だわ。

内面の成長、成熟を促したいという狙いかしらね?

でも全科目ってどうなのよ?😅

小学校教師の友達
小学校教師の友達

実際は『興味を持てれば』で十分だよね。

そこまでの意欲はなんでもかんでも発動する必要はないと思ってる、笑。

小学校教師の友達
小学校教師の友達

『ちゃんとやろう』くらいは求めても良いとは思うけどね。せめて『やろうとはしろよ👍』とは指導したい。

私

『やろうとはしろよ👍』、おっしゃる通りすぎる。超納得。

その方向で指導してみます。ありがとう😊

な〜るほどね〜。

息子は息子。

小学校は小学校。その姿勢で構わない。

 

だけど先生の意見として、なんでもかんでもに発動する必要まではないとは言いつつ、

『学習を深めるために出来ることをやろうとする』ことは人間的な成熟において大切なことなのだということが、ここでようやく私にもうっすら分かってきたように感じました。

だから今はできてなくても『やろうとはしろよ👍』って息子に言えば良いんだな。そんでその片鱗を見つけたらすかさず褒める。

それくらいなら、できそうだ。

 

友達にそうわかりやすく教えてもらって、私は『なるほどね〜😊』と納得を得て、ようやくモヤモヤ感を解消することができたのでした。

持つべきは友。ありがとう😊

でも、本音はまだちょっとモヤモヤしてるけどね。それについては今後の息子の成長に期待しながら引き続き考えていこうと思っています。

コメント

  1. K より:

    こんにちは。

    通知表の「主体性」問題ですね~(笑)わかりすぎます。毎学期、学校側に少しでも疑問を持ってほしいなあーと、ほーんのり匂わせようとして、親のコメント欄に必死で悪あがきの作文をしている小市民母です。

    もう既にいろんな方からお知らせあったかもですが、これは完全に時代の流れですよね。去年、教育指導要領(だったけ?)かが変わって、評価軸が変わり1/3が主体的・対話的に学べるか、に変わったのです。とびぬけた知識・技術だけではだめ(
    か、いらない)で、プロジェクト型の人間が必要だ、ということなのでしょうか。
    https://www.mext.go.jp/content/20201023_mxt_sigakugy_1420538_00002_004.pdf

    この主体性、我が家ではなぜか苦手な科目にいい成績付くんですよね。苦手な科目を必死でやっている姿というのは「主体的」に見えるらしい(助けてもらっているから対話も生まれるし?)。翻って、得意科目は、息子の場合は評価は良くなりません。

    私個人としては、毎回、コメントに力入れちゃうぐらいのもやもやの気持ちがありますが、世間の流れ的にも通知表は先生からのメッセージぐらいの温度で受取り、中受がんばってしまえ、とひそかに応援しています。

    • こんにちは、コメントいただきありがとうございます😊
      親から学校に作文を提出するとは!素晴らしいです!私は1人でモヤモヤしているだけでいけません😅私はさー、なんだか変な反発心?が芽生えてしまって、息子が評価軸に合わないならば評価していただかなくて結構です!って気持ちで学校と距離を置きそうになってしまいます。本当にいけませんね。。反省。

      そういえばですが、今月に入り以前に当サイトでも書いた文科省のギフテッド支援アンケートの結果が公表されました。
      https://www.mext.go.jp/kaigisiryo/content/20211029-mext_kyoiku02-000018576_01.pdf

      その中には学習意欲の評価についても指摘されており、例えばこんな内容です(↓)
      >・既に知っている内容でノートなども書く必要がないため、書かない。そのためノート提出が出来ず内申点がとても低い。興味のある科目ほど意欲がないと判断されてしまう。

      息子のことかと思いました。。
      さておき、得意科目に関する意欲は教師からは見えていない。問題点として提起されるべき重要なことなのだと感じました。

      ちなみにこのアンケート結果には私が書いたドリル苦手事件も取り上げられていました(↓)。一部改変されているのできっと他のご意見とともにまとめて書かれたのだろうと思いますが、このことから似たような子供が他にもおり、困っている方が多数いらっしゃることが分かって改めて深刻に捉えました。
      >・反復学習が大変苦手。漢字の練習(同じ字を何度も練習すること)や同じパターンの計算問題が大量にある算数プリントが苦手。苦手と言う範疇を超え、ひどく嫌がり、叫び、ストレスから吃音の心身症状も出る。

      支援のあり方がまとまるまでにはまだ時間もかかるだろうし、とりあえず息子らは『いつか得られる生きやすい環境』を目指して今は努力を積むしかないのだろうなと思います。中学受験の応援は惜しみなくいきたいですね😊

      • K より:

        早速お返事いただいて~。ギフテッドのアンケート結果出ていたのですね。知りませんでした!すばらしい若者の例もたくさん出ていましたね。そして、ひそかに自分の文も載っていてにまつく単純な私(笑)

        目を通して見て私の印象に残ったのは子どもたちが人に育まれることの意味深さかな。友達であったり、ある先生や特定の大人であったり、と人に恵まれることの大切さを感じ、ちょっと感動すらしました。

        その一方で、それは運任せみたいなところもあるわけで、親のリソース、援助へのアクセス力によってだいぶ違っちゃいますよね。そもそも、このアンケートに答えられた保護者の元にいる子供たちはそれだけで恵まれているともいえるのかも・・・なんてね。

        評価の話に戻ると、新評価基準実施から一年を待たずに、このようなアンケートが実施されたことも何か理由があったのかしら、それとも偶然なのでしょうか?知る由もないのですが、考えてしまいました。

        • 子供たちが人に恵まれることは本当に願いたいです。私もそうでした。恩師と友達に恵まれて、なんとかかんとか大人になれた気がします。でもそれは本当に運任せで、絶対に恵まれるものでないことが心配です。
          確率を上げていくことを模索するしかないのが現状かしら。それには親の情報収集がとても大事になりますね。1人では難しいので、どうかこれからも共有させていただけると嬉しいです!

          それと確かに、タイミングについては何かきっかけがあったのかなって思いますね。「落ちこぼれ」と呼ばれてしまう子をどうするかはしっかりと考えられてきたけれど、その反対の「吹きこぼれ」についてはあまり考えられてこなかったことがようやく検討され始めたのかもしれません。
          日本の今後の成長(挽回)を考えるとさ、もはや抜群の“天賦の才”を頼り育てるしかないということには誰もがとうに気づいてはいるのでしょう。そんな子供たちを押さえつけることなく伸び伸びと成長させることは必ず全体の幸福につながるものだし、どうかそんな教育システムになってほしいなと思うばかりです。

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