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“神経発達症”、呼称変更に思うこと

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徒然思うこと

みなさんこんにちは✨

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つい先日、当サイトを読んでくださっているお友達から日経ビジネスに掲載された記事(↓)を教えてもらって興味深く読みました。

今日注目したいのは、『発達障害』という名称が、今後は『神経発達症』という言葉に置き換わっていくと書かれていること。

当サイトでも何度か、『発達障害』という言葉の印象(字面)が悪いことを嘆いてきました。事実、私は発達障害に直面する当事者として、“発達障害”という言葉そのものに常に誤解や偏見が付随することを少なからず感じてしまうことがあるのです。

神経発達症という名称に変わっていけば、それらは何か変わるのか。

加えて海外ではより俯瞰的な印象となる、“ニューロ・ダイバーシティ”という言葉が使われているとも聞き及びます。

今日はそれらについて思うところを少し記録しておこうと思います。

わたし
わたし

大袈裟な言い方かもしれませんが、“発達障害”という言葉を“否定”や“排除”の代名詞のように捉える人もまだいるのではないでしょうか。悲しいことだと感じます。

少しずつでも、ニューロ・ダイバーシティの実現に向けて検討と提言がなされるべきであると思います。

前向きな呼称変更になってほしい

呼称自体が当事者の社会参加を阻む可能性があるのではないか

『発達障害』という名称が、徐々に『神経発達症』という言葉に言い換えられていくかもしれない。

その理由は多々あるのでしょうが、この記事でも指摘されている通り、やはり“障害”という言葉自体に差別的なニュアンスがあるというのが主な経緯のようですね。

 

そんな話を聞くと、近年に病名が変更された『統合失調症』を思い出します。

統合失調症は、意思や気持ちがまとまらなくなる状態が続く精神疾患です。私の実母もこの診断を受け、長く治療を続けています。これはかつて、『精神分裂病』というなかなか強烈な印象のある病名でした。

確認のために検索してみると、『精神分裂病』から『統合失調症』に疾患名の呼称が変更されたのは2002年の8月のことだったようです。

その発端は家族会が、

「精神が分裂する病気」というのはあまりに人格否定的であって本人にも告げにくい、変えて欲しい。

と声を上げたことに始まって、

  1. 障害者が障害を持たない人とともに一般社会の中で普通に生活できることが重視される社会的機運が醸成されつつあること
  2. 『精神分裂病』という病名に刻まれた誤解と偏見、それによる不当差別を解消する必要性があること

などが議論され、結果的にその呼称は適切ではなく、呼称自体が当事者の社会参加を阻んでいる可能性すらあることなども勘案されて呼称変更に至ったとのことでした。

全くだ。精神分裂病は正直に申し上げて、ちょっと怖い響きさえある。

家族会の訴えから呼称変更まで、約10年を要しています。

とても大変だっただろうと思われますが、変わって良かったと思います。

今では“精神分裂病”という不適切な呼称を使う人はほとんど居ません。私は母を見ていて、精神疾患の印象自体が大きく変わってきていることを感じています。どこででもとは言えませんが、共存が可能な社会は一部においては実現しつつあるのだろうと思っています。

『発達障害』もまた誤解と偏見に満ちている

それでは、『発達障害』はどうでしょうか。

直に読むと、

『(人としてかくあるべき)発達に障害がある』というふうに見えてきます。

この印象もまた、悪いのです。

現代においては多少の認知と理解は進んでいるとは思われますが、私は今なお“発達障害”という言葉は差別、否定、排除の響きを含んでいると感じます。

 

私自身の経験で言うと、以前にも少し書きましたが(↓)、例えばこんな言われ方をしたこともありました。息子の発達障害について話していて、

そういう人って、犯罪を犯しても精神鑑定で無罪になるやつでしょう?

と言われたことはショックでした。

本当にね、『はぁ!?』って感じでした。すぐに言葉が出ませんでした。

偏見があるのは仕方ないにしても、まるで息子が狂人的で、いずれ犯罪者にでもなるかのような言い回し、さらにはその時に罰せられないことを残念がるかのようなニュアンスが感じ取れて私はとても嫌でした。

こらえましたが、『他人の最愛の息子についてよくもまあそんなことを言えますね。あなたこそ発達障害なのではないかしら?』と言い返す寸前でした。言い返したら負けだと思って耐えたけど。(詳しくないのですが、発達障害者は減刑になるという事実でもあるのでしょうかね!?😠)

 

また、比較的最近にもハッとしたことがありました。

最近私は空き時間を利用して、近所のワーキングママのお子さんを送迎したり夕方の短時間をお預かりするボランティアをしております。

ある日知り合った親御さんにうちの子供たちのことを聞かれた際、私はうっかり必要もないのに、

私

上の息子に発達障害があることがわかって、今はそれに集中しているんですよ。子育ては本当になんでも起こりますね、大変です。

と言ってしまいました。

するとそのママは顔色を変えて、私が抱っこしていた赤ちゃんをスッと受け取って速やかに立ち去られたことがありました。

発達障害児の親に、我が子を預けられないと思われたかな。それまではいい雰囲気だったのにな。もしくは他のご事情があるかもしれないし、それ以来お会いしていないので詳しいことはわかりません。せっかくのリフレッシュのお時間に悪いことしちゃったなぁとも思っています。

 

ちなみにですね、今の私はどんな受け取り方や反応をされたとしても興味深く『研究対象』として捉えています。なるほど、そういう人もいるのねという知見を増やしている気持ち。そう、いつも『これも勉強だ』と捉えることにして、過度に落ち込んだりはしていません。

それにこれらは全て、いずれ“息子本人にもかけられるかもしれない言葉”の可能性があるものです。私が先に一通り経験しておくことはいずれ息子の助けになるし、共感してやる糧になるはず。そう思っているのでどんな反応があり得るのかはもっと知りたいと思うくらいです。

(↑自分にはこんな反応をされた、という話があれば愚痴がてらお寄せください。知見の一つにさせていただきたいです👍)

 

このように、私個人のレベルにおいてさえ『発達障害』という呼称には様々な誤解や偏見が付随していることを感じています。

私はぜひとも、それらの偏見を払拭したい。

“発達障害だから問題がある”と思われるのは当事者としてとても嫌だし、絶対に間違っていると断言します。

発達障害児は問題児ではありません。発達障害者は劣っているわけではありません。むしろ誰よりも上手く出来ることだってあるのですが、その発揮は環境に依存する場合があるというだけの話です。

また、視点を変えればそれはまるで“発達障害じゃなければ問題がない”と言われているようで大いに違和感を感じます。絶対にそんなことはないはずでしょう?

『発達障害』という呼称に含まれる差別や否定、排除の響きは全て無根拠なものであり、私はそれをとても愚かしいと感じています。

それが『神経発達症』という呼称に変わることで、また違った意識に変わるでしょうか。

呼称の変更はその一歩にはなるでしょう。どのように変わっていくのか期待したいと思います。

“多様性”と“障害”、両方の側面を包括的に含んで欲しい

日本では『発達障害』の呼称がいずれ『神経発達症』に変化していく動きです。

ところで海外においてはより俯瞰的な印象となる、“ニューロ・ダイバーシティ”という言葉が使われていると聞き及びます。

“ニューロ・ダイバーシティ”とは“神経学的多様性”を示す言葉です。すなわち発達障害は遺伝学上の多様性の一つに過ぎず、それぞれ固有の強みを持っているのだと捉えるための考え方です。

あなたも私もみんな違って当たり前。それぞれの強みを活かして生きていこうとする考え方です。

うん、悪くない気がします。

この考え方でいい気がします。

日本でも『神経発達症』という呼称になることは前向きな変化を起こすだろうとは思われますが、まだまだ“疾病”感が抜けきりません。それがさらに“ダイバーシティ”の位置付けになれば、当事者も周囲もどれほど受け入れやすくなるだろうと思うことに加えて、多様な強みを持つ人が活躍することが受容され、それが更なる発展を引き起こすことが見込めます。

 

一方で、呼称からは消えて欲しいとは思いつつ、“障害”という側面が完全に消えたらそれはそれで別の問題を引き起こすのではないだろうかと危惧する自分もいたりします。

昨年の一斉休校をきっかけに、テキメンに調子を崩した息子を想います。

あの時、もちろん全人類が大なり小なりストレスを抱えたとは思います。だけど我が家は極端でした。

急激な社会の環境変化に適応できず、彼がこれほどまでに取り乱し生活すらもままならなくなったのは彼にはやっぱり“特別な困難”があったからだと捉えています。

あの時に彼の特性が彼の生活に負に働いたことは間違いのない事実です。

あの時の我が家は決して“多様性”という一言で表されるレベルではありませんでしたから。

 

“多様性”という言葉によって誰しもが自由に自立することが受容されることを喜ぶと同時に一方で、当事者には絶対的に存在する困難が、すなわち発達障害の“障害”の側面が軽視されてはいけないだろうと思うのです。

これは非常に匙加減の難しいところでしょうね。

困っている人に当たり前に手を差し伸べる文化の醸造が先に為されるべきだと思います。

 

それが実現したならば。

“発達障害”は“当たり前の人間の在り方”として受容され、視力の低い人が眼鏡をかけるように、左利きの人が専用の道具を使うように、必要な時にサポートを得ながら当たり前に生きていけることを期待します。

発達障害を抱える人の自己肯定感も上がるでしょう。

個々に多様である人々には、個々に強みがあるわけです。コミュニケーションは独特かもしれない人も、個々の強みで当たり前に受容されて生きていける日が来て欲しいと思います。

それはとても前向きだし、誰もを幸せにする社会環境なのだと思えてきます。

 

これから日本において『神経発達症』を経て、さらに“ニューロダイバーシティ”を実現するにはもう少し時間がかかるかもしれません。

発達障害を抱える人を理解し話し合いながら統一の見解を作っていくって、一体誰が出来るだろう。おそらくそれは、熱意を持った発達障害の当事者が担当するのがベストです。そんな強い情熱を持つ『リーダー』が、いつかきっと日本にも現れるでしょう。そうしてきっと進んでいくはず。

呼称の変更はきっとその一歩になるはずです。

息子が大人になる頃には、まずは『神経発達症』の方が当たり前になっているかな?どうかな?

注視したいと思っております。

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