みなさんこんにちは。本日もご訪問ありがとうございます✨
私は今週に新型コロナウイルスワクチンの3回目接種を終えました。
この冬には夫が新型コロナウイルス感染症に罹患しつつも、他の家族はみな無症状のままで過ごすことができました。ここで、今一度私が免疫機能を活性化させておくことは十分な意義を有するものと思われます。副反応はどうかなー。今週は安静に過ごそうと思います😊
さて。
今日の記事のタイトルは“カラサワ君”です。『誰やねん?』と思われますね(笑。実は私もお会いしたことはありません。できるならばお会いしたいとは思っていますが、これから書くことは60年ほど前の話です。
今週月曜に書いた記事に関連し、思うところのある方より貴重なご経験談を寄せていただきました。今日はそれを紹介したいと思います。
当該記事(↓)を未読の方は、こちらを先にご参照ください。既読の方も、今一度振り返っていただくと良いかと思います👍
実は、私が月曜に書いた記事の内容も、多くの方には理解されないかもしれないと思っていました。
“嘘ではない方便”が使えれば良いのですが、それを習得するためにはどれほどの努力を要するものかと思います。
カラサワ君の話
いただいたメールより紹介
今週月曜、私が書いた下記の記事について、このようなメールをいただきました。
貴重なご経験だと感じましたので、お名前は伏せつつここに紹介させていただきます。
今から60年ほど前の事、私が小6の時の事です。今でもある種の感動と哲学的想念をもって思い起こす出来事がありました。
当時の担任の先生は強面の厳しい教育で有名でした。毎日の宿題に漢字の書き取りをノート1ページしなさいという課題があり、週末にそれをチェックするというものです。
例によってノートの提出場面がやってきて、いつも同様、50人中の10人程度の「忘れました」がおりました。運悪く私もそのうちの1人です。
担任のキツイ口調で、宿題をしてあるがノートを持参してない者と宿題そのものをしてない者に振り分けられて叱責を受け、8人は宿題未了を認め「以後気を付けます」で放免。
私は「ノートを忘れただけ」と言うも信じてもらえません。出来は良い方だった私に、だからこそ向けられた「完了していないことを認めろ」と言う嫌味な言い方です。
その中で、“カラサワ君”だけは、宿題はやって無いし今後も出来るとは言えないと、一歩も引きませんでした。
担任は振り上げた教育的指導の拳の納どころがありません。私に対しては、「お前は今から家まで取りに帰れ」とのこと。田舎の事とて、結構な距離があります。信じてもらえぬ悔しさと忘れ物をした迂闊さを後悔しながら走って・・走って。
小一時間かかって教室に戻ると“カラサワ君”はまだ怒られています。
「次からは、ちゃんとやります」と言えば許してやるから言えと担任は怒っています。でも言いません。「そんな約束はできない」と。怒り心頭100%の担任相手に数十分の闘いをしていました。
凄いやつだなと感心しました。ほかの生徒は口先で、これからはちゃんとします位の方便でその場をしのぎ、担任もその程度を落としどころと考えていたと思います。しかし彼はこれからもきっとやらない自分を知っているから、相手に迎合しなかったのだと感心した次第です。
私は1日しなかったら次の日2ページのこの宿題は過酷で、ほかの人は書き取る文字の大きさをなるべく大きくし頁を埋めるテクを使いうまくやってました。私はそれができない頑固さが問題でしたね。「ふーんやってあるんだ」、それが担任のお言葉でした。
カラサワ君はキンコンカンの鐘の音で救われました。その後彼はどういう生き方をしたのかな。今はどうしているのかな・・・。
嘘も方便も使わず生きることって難しいですよね。
カラサワ君から学ぶこと
本音と建前
私はこのメールをいただき、驚いたしハッとしたような気づきがありました。
まず、こう思いました。
それだ!カラサワ君が息子だ!
先の記事でも書きましたが、私の息子もまた『もうしません』とか『以後気をつけます』が言えません。
取り敢えずでも(仮に嘘でも)、息子から『以後気をつけます』との言葉が聞ければ私も気持ちを収めることができるのに、だけど息子は断固言わない。その理由は、またするかもしれない可能性が0ではないことを知っているからなのだと理解しています。
『もうしません』って、言えば済むのに。
私も最初は、息子のこれが本当に本当に理解不能で悩みました。しかし息子はどのように言っても態度を変えることはありませんでした。
そして私は何度がそんな場面を繰り返すうちにに、私自身もまた子供の頃はそうであったことを思い出していったのです。そう、私は成長するにつれて“建前”というものを覚え、“取り敢えず”の対応は悪ではないと渋々ながらも理解してきたという経緯を経ました。
そんな自身の成長過程を思い出した時、私はようやく、今の息子に方便や建前を言うように期待することは間違っているのだと気がつきました。(以来、こういう時は私が一歩引くようにしています。)
私は先のメールをいただき、息子以外にも、カラサワ君のような過剰な正直者がいるのだと改めて知ることとなりました。これらの話から学べることは、以下のあたりでしょうか。
- 過剰な正直者は、思う以上に存在する
- 建前が無いと理解を示せない相手が存在する
- 建前や方便を言えない人は損をする
- 建前ばかりを並べても、話は何も進まない
一つずつ、見ていきたいと思います。
過剰な正直者は、思う以上に存在する
先日の記事を書いた時、実は私は不安でした。
息子のこの事例を、理解し共感してくださる方は一体どれくらいいるだろう…?
つまり私は、多数の方はもしかしたらこんなふうに思うだろうと、とても不安な気持ちでした。
『もうしません』って言えば済むだけなのに、そんな簡単なことも出来ないなんて、やっぱりだめな子なのね。
すなわち、そんな実体験やそんな事例を見たことがある人でないと先日の記事に共感をいただくことは難しいのかなぁと不安に感じていたのです。
だけど、息子のような“過剰な正直者”は息子以外にも存在するし、もしかしたら我々大人が思う以上にたくさんいるのかもしれません。
“建前”が無いと理解を示せない相手が存在する
先ほど、私は『自分もまた、子供の頃はそうだった』と書きました。
もちろん今では、世の中には“建前”というものが存在することを覚え、面倒な場面をやり過ごし自分の時間を守るためには有用なものであると理解はしました。だけど私自身も今なお、“思ってもいない建前”を言うことには大きな抵抗を感じます。極力使いたくはない、というのが私の正直な気持ちです。
事実、この60年前の担任教師のように、世の中には“建前”が無いと納得してくれない人がいます。逆に言えば、“建前さえあれば”納得してくれるということです。
社会でコミュニケーションを取るべき人の中にそのような相手が存在する限り、苦しいけれどどうしても“建前”を駆使して自分を守らなくてはならないことを、息子は未だ学んでいません。当時のカラサワ君もまた、この時点ではこれを習得できていなかったのだと思われます。だって苦痛を伴いますから。
我々にとっては、“建前”を発することは他人が想像する以上の苦痛を及ぼすことをどうか多くの方に知ってほしいと思います。
建前や方便を言えない人は損をする
60年前のカラサワ君は、明らかに“損”をしていますね、1人だけ。
50人のクラスメイトのなかで、10人が宿題のノートを提出しなかったという状況において、
1人:宿題をやったけれど自宅に忘れた(←メールを下さった方ですね)。信じてもらえなかった悔しさや走って取りに行くのは大変だったと思います。この方も損をしたっちゃしておりますが、今はちょっと置いときましょう、笑。
8人:宿題未了を認め、「以後気を付けます」という方便を言うことで放免。宿題をしていないのにも関わらず。
そして残りの1人のカラサワ君:その方便が言えないがためだけに、宿題未了の罪は先の8人と同じであるが、彼だけが小一時間も怒り心頭の担任教諭から叱責を受け続けることになりました。
ここで必ず押さえるべきは、カラサワ君もまた、叱責を受けることは辛いのだということです。なんとも思っていないわけではないのです、なんなら過敏に傷ついているかもしれないことに、勘違いをしてはいけません。
カラサワ君もまた、叱責されて平気であったはずがありません。だけど、どうしようもないのです。事実、このような経験を多くするので“非定型”の子供は自己肯定感が育ちづらいと言われています。これはそのお手本のような話です。
カラサワ君は方便が言えないために小一時間という時間的損失のみならず、自尊心を傷つけられると言う損をしました。しかし彼にとっては損得ではない、言えないものは言えません。無理に言えと言われても、そんなことは無理な注文だという状況なのです。
そういう人も居るのです。だからと言って、傷つけられて損を被っても良いのでしょうか?犠牲は当然?自業自得と言うのでしょうか。
私はそうではないと思います。とても複雑な思いがしています。
建前ばかりを並べても、話は何も進まない
最後に、8名が言った“建前”は何かを改善したか?と問うてみたい。
この8名は、本当に以後気をつけたのか?
想像することしかできませんが、おそらくこの8名のうち何名かは、きっと翌週以降にも同じことをするはずです。
私はそれが理解できない。その放免には何か意味があったのか?その建前は、一体何を生み出したのか?ということです。
私自身の、研究者としてのトレーニング期に指導教官に言われたことがありました。
議論の受け答えにおいて、「検討します」は検討していない人間が言うセリフ、すなわち思考停止、絶対に使うな。
私はこれがとても印象に残っていて、自分自身では(余程の際にしか)言わないこととし、答えられなくても精一杯の思考を巡らし、分からないのであれば素直に分かりませんと言い、すぐに調べて自らの成長になるようにと努めてきました。
つまり、この「検討します」も建前です。指導教官の言葉を借りるならば、それは思考停止です。時々テレビで見かけるような政治家の討論なんかは「検討します」のオンパレードであり、それを見るたび私は『この方は検討してないのねぇ。』と遠い目で見つめています。それが何を生み出すか?
もちろん私は社会経験を経るにつれ、損失を防ぐために“建前や方便”の必要性を感じてきたのは本当です。嘘も方便も使わず生きることは、本来不要な“困難”を生むのだろうとは思います。
だけどそんな実のない上部の言葉で、一体何が変わるのだろうとも思っています。
それが分からないから、我々は建前を言うことが苦手であり、苦痛です。自分への納得が得られていないのです。
カラサワ君は、その後どういう生き方をしたのでしょうね。今は70代前半だと思われますが、本当に機会があれば会ってお話ししてみたいと思っています。
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