みなさんこんにちは✨
一昨日の記事において、都市部と地方都市でのリソースの少なさや情報への物理的な遠さは、変化が遅い地方都市自体の保守性のために加えて、人材不足や、そして見かけ上のニーズの少なさにも起因するのではないだろうかと書きました。
記事を公開した日の午後には、今は香川県にお住まいの方よりこんなお話も聞かれました。
香川では全くオンライン授業という話は聞こえてきません。存在すら誰も知らないのでは?
私は、大西さんが話す東京のことを『都会だからねー』くらいに聞いていました。なんというか、ヨソの国の話と同じくらいのレベルで。
流さずに、地方であっても然るべき!という声をあげるべきなのかもしれませんな。
そうですね。何か問題に直面したら、そうしてみると良いかもですね。
行政もさ、すぐには動かないかもしれないけれど、何より動けば仲間も見つかる可能性も出てくるし、情報が入り、自分のための好循環も生まれるかもしれません。少なくとも私にとって当サイトはそんなツールになっています。同志としてお目通しいただける方、多様なご意見をくださるみなさまにいつも感謝しています😊
さて、今日はその地方都市の話に関連して、18歳だった頃の私を少し広い世界に押し出してくれた高校時代の恩師の話を記録しようと思います。
私はそんな保守的でかつ情報からも物理的に遠かった地方都市からの“脱出”を果たした1人です。だけど私は、実は今でも心のどこかでこんなことを思っています。
もしかしたら私には、本当はもっともっと広い選択肢もあったのではないだろうか…、と(↓)。
私は今も高校生時代にご指導をいただいた恩師を慕い、折々に連絡をとらせてもらっておりますが、今年になって私がその恩師にお会いした際、私は恩師にこんなことを言わせてしまいました。
あの時、俺には知恵がなかった。お前をもっと広い場所に出してやることができなかったのは俺の力不足だった。
私は、非常に複雑な思いでこの言葉の意味を考え続けるばかりです。
それでもきっと、全てが最善だったと思ってる
“知らない”、“知らないことを知らない”、“存在も知らない”
私は18歳までを富山県内の両親の家で育ちました。
18歳の時に大学への進学をきっかけに富山を出て、単身で北海道の札幌市へ移りました。
私の育った家は裕福でなく、また、両親も高等教育を受けておらず、私により高い教育を受けることの価値やメリット、現実性を具体的に話してくれる人は周囲に一人もいませんでした。当時の私の周囲には、苦労はすれどもその土地だけで生きてきた来た人しかいませんでした。祖母は私によく『自分は電車の乗り方も分からないのだ』と泣いて訴えました。そんなもんやる気と必然性の問題と違うんかと私はうんざりして聞いていましたが、今思えば、まるで縛り付けられたようにただその土地で生きていく呪いのようなものでもあったのかもしれません(つまり、私には今も理解不能だということです)。
進学することの価値も“知らない”、“知らないことすら知らなかった”のかもしれません。保守的で、自分の想像範囲を超えるものを受け入れない。当時の私の周囲では、それまではそれで済んできたのだと思います。
私はそのような環境から脱出できて、18歳で家を出て、本当に良かったと思っています。進学を機に少し大きな街に出て、たくさんの人と出会い、私の世界は広がりました。
進学後にももちろん私は大いに無知であったので、もったいない時間の過ごし方をしてきました。今ならもっと、頭の回る若い時分に色々なことに挑戦したり外国をまわったりインターンシップやボランティア活動などを経験したかったと悔やんでいます。当時の私には場面緘黙症の影響もあり、その特性ゆえに社会経験が少なめになりがちなのはもともとの弱点ではあるのですが、本質的なところでは私はそれらの価値についてもまた“知らないことさえ知らなかった”ことだと思っています。
それでも私は大学に進学し、のちに生命科学や分子生物学というハッと目が覚めるほどに興味を惹かれる学問領域に出会い、半ば流されるように進むべき道に出会えたことは幸運でした。
大人になって振り返り、私にはもっと大きな広い選択肢もあったのかもしれないと、そう考えたことも何度もあることも本音です。しかしそれも、全てが過ぎたことなのです。
今の私がここにこうあるのは全て、何も知らない田舎の高校生だった私に大学受験という選択肢を提示してくれた恩師達のおかげであり、同時に当時の私自身がその掴み得る選択肢に向かって精一杯に、当時の私の全力の力で手を伸ばしたという結果です。
私はその精一杯に伸ばしたその手の、中指の、指先に、やっとかすかに触れるような、当時の私にとっては最大限とも言えたであろうそんな進路を掴んだことを心から誇りに思っています。
大人になってからも恩師には支えられ続けてきた
私には、発達障害の特性があります(↓)。
そして私が子供の頃には場面緘黙症及びチック症の症状も強くありました。なんとなく学校にはうまく馴染めなくて、辛い思いをしたこともありました。また、本当にお恥ずかしい話ですが、子供の頃の私は周囲の大人も含めてみな“頭が悪い”のだと思い込んでおりました。
そんな私はきっと、斜に構えて扱いづらい、そんな子供だったと思います。
そんな私も高校生になった時、私は生まれて初めて『頭がいい大人って居るんだなぁ😲』と知りました。それが高校で出会った恩師でした。とにかく田舎だったので学習塾も近くにはなく、大学受験の受験勉強も友人達と教え合いながらその公立高校の先生方に丸ごと面倒を見てもらいました。学力面でも、そして精神面でも、高校時代の友人と恩師の存在は何よりの私の支えでした。
それからも、なんなら今でも、私は何かあるたびに当時の恩師を頼ってしまうことが多いです。(卒業後25年弱ほども経つのにすみません😅)
息子が崩れ、仕事を辞めざるを得なくなった時。私は恩師の年賀状に救われました(↓)また前を向こうと思えました。
仕事で教育委員会での講演を依頼されれば、それもまた当時の恩師の指導を想い、私は恩師を頼りました。あの恩師達はどんな思いで私や友人達を導いたのか、私はすぐに恩師に電話をかけて尋ねました。
最近にも息子に発達障害の特性がありそうで、それはどうやら遺伝的には私に由来すると思われて、私は一度頭がぐちゃぐちゃになってしまって大きく落ち込んだこともありました(↓)。そんな時にまで、私は恩師を頼りました。
子供の頃の私自身は、大人から見れば一体どんな子供に映ったかを知りたかったのです。そして私の特性に似た資質を持つ息子を導くためのヒントを掴む手がかりになればと願いながら、私は口実を見つけて高校で化学を担当してくださっていた恩師にすぐに電話をかけました。
おー、どしたー。
先生は、いつもの口調で話を聞いてくださいました。
大西でございます。ええ、元気にしています。実は息子に発達障害がありそうなことが分かりまして。
その同タイプの発達障害というのが、私にもあったのだろうと今更ですが自覚したところです。息子は私によく似ています。
それでお伺いしたいのですが、先生から見て、私はどんな生徒だったんでしょうか?見捨てずに導いてくださり感謝しています。
息子にも私にとっての先生のような恩師に出会ってほしいと願っているので、教育者側の当時の私の印象というのを知りたいのです。
それは、アスペルガー症候群とか、そういうのでしょ。
そうですね、それを含む一連の特性だと思います。
俺は、大西に対してそう思ったことは一度もないわ。あー、ないことないかもしれんけど、ない、うん、ない!(←なんやねん、笑)。
俺も毎年たくさんの子供に会うからの、本当に『あれ?』って思う子もたまにいる。変に頭の良い奴の中にもそういう子はいる。
だけどまぁ、お前はそんな特に頭が良いタイプでもないし(←よく覚えてらっしゃる、笑)、努力型で頑張ったんだと思ってるよ。特にお前は目的がわかってからの追い上げが良かった。俺らもそんなお前らを教えるのが面白かったんよ、そんだけ。
息子君も、心配なかろうと俺は思う。お前に似てるんやろ?これからのことは何よりお前がおおらかに考えてやればいいんじゃないの?
そうか、私は一応集団の中でそれほど悪目立ちはしていなかった👍(←合ってる?)私も高校生になっていたので今の息子よりは多少は成熟していたし、息子だってその年頃にはきっと今とは全く違った青年になっているに違いない。それを見越して『心配なかろう』と尊敬する恩師に言ってもらえ、また、当時の私の努力を認めていただけるお言葉も聞けたことで、私はようやく自己肯定感を取り戻したようにも感じました。
ありがたいことです。いつもいつも助けてもらうばかりで申し訳ないです。
先生のせいでは絶対にないが
そんな世話になりっぱなしの恩師達に、私は今年になり一度だけお会いすることが叶いました。その際に、私は当時の担任教諭でもあった先生に、こんなことを言わせてしまうことになりました。
あの時の俺には、知恵がなかったんよ。お前をもっと広い場所に出してやることができなかったのは俺の力不足だったと思ってる。
なんと恩師は、時々このサイトに目を通してくださっているとのことでした。
私はちょっと、『しまった💦』とも思いました。私には恩師を責めるつもりはこれっぽっちもないのです。だけどそう受け取られていたらどうしよう。
いえ、今の私があるのは全て先生方のおかげです。
それが私の本音です、本当の本当の本音です。
実際に私はこの時に当時の同級生達数名とも集まってわいわいと話をしていましたが、今は看護師をしている同級生も同じことを言っていました。
先生がおらんかったら、今の私がどうなってたかも分からんわ。親身になってくれて、本当に感謝しとるがぜ。(←富山弁)
ほらね。
私達は間違いなく幸運だった。素晴らしい恩師達に出会え、友人と切磋琢磨し最善の進路を私は掴んだ、それに悔いはありません。
もちろん、ふと思います。もっと早くに適した情報を得ていれば、『私はもっと大きな世界に出られたのではないだろうか』と。この思いもまた消えることはないでしょう。
だけどそれって、先生に知恵が無かったからなのか?
そうかもしれない。そうじゃないかもしれないけれど、分からない。
全ては過ぎた話なのです。後から言うだけなら、なんとでも言えるだけだと知っています。
だって私は最善を尽くしました。
あの、電車も無人駅に1時間に1本通るかどうかの、冬は雪深い、保守的でとても小さな町で、25年近くも前のあの時代に、先生方もあの時知りうる全てのことを私たちに伝えてくれたと知っています。
確かに私は無知すぎて、大学って結局何をするところか、全国に多々ある大学はそれぞれ何が違うのかもわからないまま、ただなんとなく自分の偏差値という安定しない情報と分厚い冊子で表面上だけの大学調べをして進学したかもしれないけれど、それは先生方に知恵がなかったからではないのだと思うの。
ただ言えることは、やっぱりあの時、地方都市で暮らしていては情報への距離がすごくすごく遠かった。
そのことに、私もだし、恩師もまた今振り返ってみてようやく気づいた。そういうことなのだと思います。
私の恩師はとても優しい人なのです。私は本当に幸運でした。
これからそういうことに気づく人が地方都市にも増えていくことで、情報への距離感は縮まっていくのだと思われます。今はそんな、“過渡期”であるのかもしれません。
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