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発達障害: 大人になればマシになる?-私の場合 その6

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息子の特性を理解する

みなさんこんにちは✨

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さて、今日は先日の続きをまた少し書こうと思います。

先日、私は当サイトの記事(↓)で

と書いたことをきっかけに、『では同じような発達障害傾向を持つ私の特性は、成長に伴いどうやって丸くなったのか?』というコメントを投げかけてもらいました。

そこでここ最近は私自身の特性について考察し、私の意識が変わったきっかけを追っています。

今日で“その6”となります。

わたし
わたし

だいぶ大人になりました。あと2回でこのシリーズもおわりです。

これまでの記事はこちらから(↓)。

生命科学との出会い

生活力の獲得も自分なりの方法で

私は大学生になり、生まれ育った家を出て、札幌市内で一人暮らしをしていました。

大学受験については以前に少し書きました。併せてご覧ください↓。

1人で生活をするにあたり、私は知らないことだらけでした。

引っ越しをしたらガスと電気を契約しないといけないとか、水道開始の方法や、生活必需品というものはどの程度であるかもわかりませんでしたが、それでもなんとかかんとかやっていました。この頃、“生活を立てる”ということがどれだけ大変かを学びました。全てが学びでした。

うまくやれないことも多かったですが、世の中の多くのことは“今”知らなくても致命的でなく、あとで取り返しがつく類のものが多いんだなと私は感じました。

 

料理はしたことがなかったのでほとんど何もできませんでした。食材の価格の相場も知らなかったので、スーパーに行っても高いのか安いのかわからず購入して良いのかどうかわからなくなってしまいました。

また、表記の仕方も難しかった。例えば『カレー・シチュー用』と書かれているお肉と書かれていないお肉は同じように見えるのだけど、これはカレーとシチューにしか使ってはいけないもので、では、書かれていないものは何に使うためのものだろう?もしかして私は何か見落としているのだろうか?それとも罠か?と、スーパーに行くたび小一時間は悩みあれやこれやとお肉を見比べた挙句に飲み物と食パンだけを買って帰るような日々でした。

(↑本当の話です。知らない上に融通が効かない。早ゆでのパスタと早茹でではないパスタは何が違うのかと深刻に悩んだりとかもしました。スーパーに行くことは本当に疲れる大仕事でした。)

まぁそれでもなんとかなっていくわけです。

私は家賃が28,000円の古いアパートに暮らしていました。同じ建物内に住まわれていた大家さんがいい人で、掃除やゴミ出し、コインランドリーの使い方などを教わりました。ちなみに大家さんと良好な関係が築けた秘訣は、顔を見たら必ず挨拶をするようにしていたことだと思っています。

『なるほど、挨拶は人間関係に有効である。大変お得だ。これからも続けていこう。』

この時に私は挨拶の重要性を再確認しました。今も仕事先の建物内とかなら、たとえ全然知らない人でも“会釈くらいは”と欠かさないようにしています。

 

また、尊敬できて気の合う友達や先輩たちにも恵まれました(↓)。

中には料理も含めた生活力に長ける奴もいて、『カレーの作り方を教えて、買い物に行くなら私も連れてって!』と頼んだりして、私は少しずつ“生活のやり方”というものを習得しました。

さらに飲み会やビリヤードに精を出し、家庭教師のアルバイトを見つけて子供を教えることに熱中したり、友達何名かで交代して運転し何日も夜通し北海道中をドライブしたり。また、当時ようやく一般にも広がり出したインターネットにどハマりして自分のパソコンを買うために色々調べてアルバイトにも奔走し、チャット機能で練習してタイピングも十分早く正確になりました。

そんなこんなで私は髪をカラフルに染め、自分の好きな服を着て、夜は街に出て色々な人と話したりして、なかなか楽しい大学生活を送っていました。

お気に入りの髪色はオレンジ。好きな服を着て自由な生活を謳歌しました。

研究者に向かう最初のきっかけ

大学3年生の時、私は当時お付き合いしていた先輩になんとなくくっついて行って偶然ある大学院の講義を聞きました。そこで私は、生命科学という学問に出会いました。

ちょうどその頃は分子生物学の黎明期を一通り過ぎ、生命体がどのような分子機構でその活動を維持しているか、どのような分子レベルの制御機構で集団として個として健全または異常とのギリギリのラインでの生命を維持しているかがわかってきました。

パッと聞いただけでもその機構は恐ろしく緻密であり、『それが自分にもカエルにも備わっていることはとても信じられないが事実なのだろう』という想いで私は自分の手のひらをまじまじと見つめました。

生命維持のためのバックアップは何重にも張り巡らされているが、エラーがあれば即刻排除されることを知りました。その判断の早さ、エラーを感知するシステムもまた緻密であることに、私はとても言い表すことができない深遠な美しさを感じました。同時に、このように進化してきた生命体の凄まじい進化の歴史と、現実に小さな1つの受精卵が発生して個体になることの奇跡を感じ、私はそのエネルギーに圧倒されました。

なんて美しいのだろうか。

私は感動しました。これはもはや神が作ったとかいうレベルですらない。美しさのみならず、大きな怖ろしさも含んでいました。

高校生の時に化学の授業をきっかけに『周期表』を知った時にも、私は同じ感動を感じました。なんという、美しい形だろう。そうして私は大学では化学専攻へ進学しました。

また、この頃私は熱力学や量子力学の勉強を通しても同じ感動に触れられそうな感触を掴んでいました。だからこれからの私は物理化学を志すのだろうと思っていた頃でした。

だけど一気に方針転換。

私は分子生物学を志しました。

当時、アメリカから帰られたばかりという畠山昌則先生(現:東京大学)の教室の門戸を叩き、私は生命科学を学び始めました。

何もできない見習い期

研究室に所属して、私は1回り年上の医師(大学院生)の指導を受け基礎的な研究手法を学びました。

その師匠が、それはそれは怖かった💦

いや、怖かったというのは違うかな。とにかく私はいつもその師匠を怒らせてばかりいました。(ホント申し訳ない、すみません…。)

それは今から思えばですが、私の特性のためでしょうか。見通しが持てなかったり目的がわからない作業についてのすれ違いや誤解が重なったことが多くの原因だったかなぁと思います。

具体的には私の理解が不十分だったり曖昧に理解したものを思い込んだまま確認せず、勝手に突っ走ってしまうことなどです。さらに私は段取りや見通しが甘くて、試薬をこぼす、手順を間違える、いざその場で必要な準備が足りていないなどのケアレスミスを毎日しょっちゅうやらかしました。師匠は私にしょっちゅう『ミスが多い』と言っていました。だけど私は口と態度だけは一丁前。全く理解をしていませんでした。そのような態度が、まさにキチンとしたお人柄&職業柄の外科医であった師匠には全く受け入れられるものではなかったのです。

 

ある日、あってはならない危険なミスをした私に対し、師匠がついにキレました。

キレた師匠は、私のデスクを蹴りました。

あまりの大声と物音に、周りの人が集まってきました。私は静かにパニックを起こし、数年ぶりのチックが起こるし血の気が引いて、その場で何も言えなくなりました。

 

完全に固まってしまった私は、あまり覚えていないのですがおそらく同期の女の子がそばに来てくれて一旦その場を離れさせてもらったような気がします。

廊下に出された私に向き合い、その子が静かに言いました。

『今、謝りに行こう。一緒に行くから。今、どうしても行かないといけないんだよ。しっかりして

 

私は師匠のところにトボトボ行って、『すみませんでした、気をつけます』と言いました。

全身の震えががおさまらないけど、なんとか小声で言えました。

『こんの!タコスケが!!!反省しろ!!!今日はもう帰れ!!!』

師匠は再び怒鳴りました。

ちなみにその日から、私は研究室内で『ナオスケさん』と呼ばれるようになったのは余談です(←当時を知る人からは今もこう呼ばれてます、笑)。

大学の卒業式。同期の女の子には世話になりっぱなしで感謝しかない(右)と仲良しの秘書さん(左)

慎重に慎重を重ねた成長期

それから。

私は全てに対し、慎重に慎重を重ねることに決めました。

まず、全て習ったことをノートを確認しながら初学者向けの参考書を読み漁って知識を固め、全ての作業の原理に基づく理解を構築、自分なりに着実に整理をしていきました。

私は、これを怠っていたと気づいたのです。何週間か何ヶ月間か空き時間を見つけてはそれを続け、そうすることで一連の作業に見通しが立ち、何をやらねばならないか、何をする必要がないのかがスッキリと明確になりました。

毎朝は、研究室に向かう道を歩きながら今日の作業をイメージします。準備すること、室内での動線は合理的かを何度も何度も確認しました。

実験台の整理整頓も徹底しました。本来体の感覚が及ばない実験台の端から端にいたるまで、全て私の感覚器をそこに植え付けたように誰よりも真剣に把握する意識で作業をしました。自分が原因のミスはしない。そして偶発的な事故、例えば誰かがたまたま通りかかってぶつかって端の試薬が落ちるなどもあってはならないので危険度ごとに予測してあらかじめ避けるにはどうしたらいいかを考えていました。実験中は各ステップで指差し+発声確認、全ては取り返しがつかないことだという怖れを持ち、疲れている時ほどより慎重に行うことを徹底しました。

 

しばらくは研究室で過ごす時間がものすごく疲弊するので、帰る頃には酸欠で目眩がするほどフラフラになりました。意識して高カロリーのものを食べているのに体重はどんどん落ちて、一時期は40キロ前後にまで痩せてしまいました。

しかしこの意識を続けることで私は実験や研究作業が自分でもわかるほどに上達しました。ミスがなくなりやり直しの回数が減って研究は進み、要領を得ればたくさんの作業を同時に複数こなすことだってできました。師匠に怒られることも、ほとんどなくなっていきました。

やはり。何事にも“やり方”というものがある。

それさえ分かれば大丈夫。

研究室のバーベキュー。隣の白い服のオジさんが師匠。関係も少しは改善されました。

研究室に入って1年半ほど経った頃、私は自分の研究テーマを持ち、小さな研究チームのリーダーになりました。

大学院に進学して

“専門家”は頼りになるし面白いと知った

大学院の博士前期課程(修士課程)に進学し、私は小さな研究チームのリーダーになりました。

研究目的を設定し、その解明のための手法として数種の遺伝子改変マウスを作製しました。当時はすでに遺伝子改変マウス自体は目新しいものではありませんでしたが、まだまだチャレンジングな研究手法だったし、何より私はそれを通して多領域の“専門家”と交流できることを喜びました。

病態を議論するために病理学を学ぶ必要があり、指導教官であった畠山教授のお口添えで医学部の病理学教室に勉強に通わせてもらいました。忙しい教室でしたが一を質問すれば十までたくさん教えてくれて、私は病理学が奥深くとても面白いと好きになりました。

外科手術と生体組織の取り扱いを知る必要があり、医学部の外科学教室にも出入りさせてももらいました。この頃、私は色んな人、多くの専門家に出会い思いました。

 

“専門家”というのは学んできた歴史があって本当にものを知っている。私はまだ学生で素人なのだから遠慮なく頼ろう、彼らは自分が飛躍するための踏み台だと思ったっていい。それが全て早道だ。

私はそういうプロフェッショナルな“専門家”と話すことが好きでした。礼儀を忘れず自分も真摯に接することで、彼ら/彼女らとも良好な関係を作っていけていたように感じました。

もう臆する気持ちはありません。知りたいことは自分でコンタクトを取り、どんどん尋ねて人脈を広げていきました。

 

一方、こんなことも思っていました。

なんか、私…この中では普通だな。あの人たちは、変わり者ばかりの集団だ。

思いついたら居ても立ってもいられず走り出してしまう研究者(←ご本人も自覚していらしたようでした。でも抑えられないと。)、熱中したら約束も全部すっぽかす研究者(←後でしれっと「時間過ぎてましたね〜」とか言ってくる)、他にも自分中心でしか考えられないとか、距離感がおかしいとか、熱意の向けかたソコじゃないでしょう!?って人とかなんでもかんでもダジャレで返す人(←これは世の中にも普通にいるかな)とかもいました。(もちろんそうでない大変常識的な人も多いことを付言します!)

そんな人たちの中で、私は妙な自信を育みました。

『自分は普通。努力は実になり、周りは協力的な人ばかりで、私はきっと上手くやれる。』

つまり私は感覚的に、ここは自分が“生きやすい”場所であると察知したのだと思います。

「あなたに社会人が務まるわけがない」という言葉

修士課程の途中で、多くの同期が“就職活動”を開始しました。

理系学生の多くは修士課程までは進学しても、その先の博士後期課程(博士課程)に進学する人は少ないです。

私は決して裕福ではない家庭に育ちました。生活費は奨学金とわずかなアルバイトで賄い、それでも困窮していた私に指導教官はご厚意でいくらかの補助金を出してくれていました(←本当にありがたかった)。学費は免除申請をすることで大きく減額されており、それは母が出してくれていました。

だけど、まさか親も大学院まで出すことになるとは思ってないだろう。

研究は楽しく順調でしたが、私は就職活動とやらをしてみることを検討し、そのために研究室を不在にすることが増えますのでよろしくお願いしますというようなことを指導教官に言いました。

そこで指導教官に言われた言葉が、今なおどういう意味だったのかと考えます。

『あなたに、社会人なんか務まるわけがないでしょう?よく考えたらどうですか。』

 

…なんで?

っていうか、当時こそ言えませんでしたが今なら(こっそり小さな声で)言える。『そういう先生こそ、全然社会人向きじゃないですよね?』という言葉は飲み込んで、私は私の精一杯で、

『仕事と思えばなんだって出来ますよ』

と反論しました。

『仕事ね〜』と指導教官は苦笑いみたいに笑っていて、結局私は博士課程に進学することに決めました。

 

あれはどういう意味だったんだろう。指導教官から見た私はどういう人間に見えていたのかなって思うわけです。

当時は自分でも気づかない自分の“発達障害”の傾向は、他人から見れば一体どう言うふうに見えていたのだろう。いつか機会があれば真意を聞いてみたいなぁ、って、今でも時々思ったりします。

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