みなさんこんにちは。
今日も当サイトへお越しくださり、ありがとうございます。
まず初めに、先週の12月9日(火)に開催したオンラインイベント(テーマ:思春期早発症)もまた盛会となり、議論が深まる有意義な会になったことと思います。ご参加をいただき、活発な議論にご尽力をいただきました皆様に重ねてお礼を申し上げます。私たちも学びが深まり、課題が整理された会でした。またタイミングを見て機会を設けたいと思いますので、引き続き、ご関心とお時間が合いましたらぜひまたご参加をいただければと思います。

さて。
クリスマスも近づいて、すっかり世の中は年の瀬ですね。今月に入り周囲では、忘年会という名目のフリーダムなトークの会もちらほらと開催されるようになりました。
私もつい先日には、同志である、すなわち彼女もまたギフテッド児をお育てでありかつご自身もギフテッドの特性を持つという当事者である友人と食事に出ておりました。そこで少し印象的な議論があったので、記録しておこうと思います。
一言にギフテッドと言うにしても、よくよく見れば何種類かいそうだよねということです。

なおみさんは、“武闘派ギフテッド”よね。
それに対して言うならば、私は、“うっかりギフテッド”ってところかしら。

ここではそもそもギフテッドとは何かということを議論するつもりはありません。全く個人的な意見ではありますが、私自身は“ギフテッド”という呼称自体はあまり好きではないのですが、私が捉えるギフテッドという集団を表現するならこんな感じになるでしょうか:↓
『感情の激しさ、思考の配線、高IQゆえの繊細さ、そのほかのいくつかの部分で非常に似た資質を持つ人々が一定数以上いそうである』→『その集団には今のところギフテッドという呼称が付けられている』と、そんな感じの捉え方。私の周囲も、この日会っていた友人も似たような捉え方をしているのではないかと思う。
もちろんね、個々にそれぞれは他人ですし、ギフテッドと一言で言っても本当に色々な人がおられます。性格がとても陽性で人と関わるのが大好きな人、割と無口で籠る人、さまざまです。
そこに加えてこの飲み会では、“武闘派ギフテッド”、そして“うっかりギフテッド”という新たな表現(笑)が加わったので、面白いなと思いました。
それは私の、こんな話から始まりました。
私は今、ちょうど今年度の4月からかつて研究者だった頃の友人の誘いで、ある私立高校の理科教員を務めています。これがなかなか学びになります。受け持ちのクラスには明確なギフテッドの特性を示す学生さんもおりまして、私はその子の観察と幸せを願う私的研究を密かに遂行したりして、とても興味深いのです。
さておいて、この晩秋にはその学校で修学旅行がありました。学年全体の修学旅行ではありますが、行き先は選択制とのことでした。個々の生徒の希望に応じて、海外組と国内組、いずれかの旅行チームの一方に参加できるということです。

選べるなんていいなぁ、羨ましいな。
良いことですよね、選択する権利があるのはとても良いこと。しかも昨今では諸々の費用の高騰により国内組も海外組もさほど費用に差はないと言うことですし、ご家庭の経済状態も悪くない子が多い学校なので本当に自分の意思で決められそうでいい感じ。

私がこの年齢なら、絶対に海外組を選ぶだろうな♪
私自身も17歳の時に親の勧めでアメリカに出してもらったことがあり、その経験が私自身の目を開く転機となったことからも、きっと多くの生徒さんが海外組を志望するに違いないと私は一人で勝手にワクワクしていたのです。良い経験になってほしい、成長の糧にきっとなる、と。
ところがどっこい。
生徒さんに聞いてみたら、実は案外そうでもないことがわかりました。そうでもない、というのは自分の意思で選べていないということです。本当は海外に行きたかったけれど友達が国内にしようって言うからそうしたとか、そんな話が一人や二人ではないほどに聞こえてきたから私は驚いてしまったのです。なんじゃそりゃ。

まったく、信じられないよね!どこまでも同調圧力が働いている、日本の悪しき習慣だよ!(怒)
と、私はその友人との飲み会でそんな話をこぼしたわけです。そんで出たのが、武闘派ギフテッドというワードです。

本っ当に面白いね〜、なおみさんはそういうところが“武闘派ギフテッド”なのよね。
つまり、そういう非合理的な背景や制度にいちいちカッとなって怒りのような感情を覚え、(自分に直接関係なくとも)日本の教育現場が抱えるねじれを挙げてついつい物申したくなってしまうのが、戦う武闘派ギフテッドってところです。


それに対して言うならば、私は、“うっかりギフテッド”ってところかしら。

私はいつもズレているの。「絶対にこっちだよね」って自然と選んだ選択肢がなぜか毎度のように大多数と違っていて、「またやってしまったーーー!」って密かに顔を覆う経験がすごく多い。
その友人も職業は大学で自身の研究テーマを進めている研究者。彼女が言うには、特に役職関連で他の教授らや機関代表者と足並みを揃えて進める仕事において、いつもなぜか自分だけが違う方向に一歩を踏み出していることが顕著なのだと言いました。具体的なエピソードもたくさん聞きました、なるほどねと他人事なら笑えました。

へー、そういう時さ、「なんなの、おかしいでしょ!怒!」とか思ったりしない?

しない。またやってしまったかー、とは思うけどね。
私たちは同じようにズレているはズレているのよ。だけどズレた時の反応に違いがあって、だからなおみさんは武闘派ギフテッドで、私はうっかりギフテッドだと言ってるの、笑。

それは例えば以前の記事に書いたような(↓)、
エスカレーターの右側(東京は左に立ち右側をあける)に立ちはだかるキャンペーンを断固一人で実行する男の子もそうでしょう。彼こそ武闘派ギフテッドの代表ですよ、天晴れです、笑(←見守るご家族には笑い事じゃないけれど)。
人にはできないことができてしまうことがある。
人には見えない本質が見えてしまうことがある。
それがギフテッドの強みであるとは私も思っているのですが、日本の教育や社会が抱える「ねじれ」に怒りを覚えて物申したくなってしまうか、うっかりと乗りそびれた自分に密かに苦笑いをするのかと、そういうことに違いがある人がいるという話です。
ギフテッドとは、特有の思考の配線を持つ人たちです。ギフテッドそのものが特有の性質を持つことはもう明らかですよね。それでも気質は変えられません。
『そういうものだ』と受け入れられれば、私たちももっともっと自分らしく生きやすくなっていくのになと思いました。





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