みなさんこんにちは。
今日も当サイトへお越しくださり、ありがとうございます。
少し前のことですが、当サイトを訪れてくださる方からのLINEで、このような嘆きのお声が寄せられました。

私は私自身のカウンセリングを、心理士のところへ月1でずっと通ってます。Naomiさんのブログに出会えた事ややり取りをしたことが私はとても嬉しくて、何気なくその話題を出しました。

しかし真っ向否定的。
『私はギフテッドという言葉は嫌い』と‥🥺
何で嫌いなのか?とも尋ねる事が出来ない程にキッパリと‥🥺
ギフテッドだと言わない方がいいのかなと思いました🥺

お可哀想に。その方は、さぞや驚かれたと思います。相談するお気持ちが萎縮してしまっていなければ良いのですが、お可哀想に。あなたはなにも悪くありませんよ、気にしないでと何度でも言って差し上げたい私です。
実は私も、似たようなことを言われたことは何度もあります。
息子の主治医である精神科の医師もまた、ずっと前ですがそのようなことを言っていました。

よく聞く話ですが、ある区ではギフテッドの「ギ」の字でも出そうもんなら即帰れと言わんばかりの物言いをする心理士さんもいるようですよ。
昨今では、メディアなどでもギフテッドの実態は困り感と共に伝えられることもあり、私の周囲でも情報アンテナを張り巡らせていそうな方からは、このように心を寄せていただくことも増えてきていると感じます。

ギフテッド…大変ね〜、生きづらいんでしょう?
当事者でなくとも、こうして知識を広げることで優しい言葉をかけてくださる方もいます。
だけどまだまだ、周囲はそう理解しようとしてくださる方ばかりではありません。おそらくですが、当サイトを訪れてくださるようなギフテッド児の保護者の皆様も、冒頭の方と似たような対応を受けたことがあるのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
ちなみにですが、私がこのワードに関して無理解な言葉を受けたのはこんな時。当時小学6年生だった息子が学校に行かなくなって、面談に伺ったスクールカウンセラーのお言葉でした(↓)。

ギフテッド?はっ、これくらいのIQの子は普通にいますよ、息子さんだけが特別ではありませんから。

とは言えど。
ギフテッドという言葉が嫌いなのか、ギフテッドの特性を持つ人そのものが嫌いなのかは曖昧な部分を残しますが、まずはそのご発言を事実として受け止めて、考察くらいはしてみましょうか。以下はただの私の徒然になります、勝手にダラダラ書いていくことにしてみます。
まず一つ目は、やはり“ギフテッド”という字面が良くない。“ギフト”という何かしらプレゼントのような特別感のある響きが含まれるので、まるで優れたもののように受け取られかねないという点が挙げられます。
これについては私もよくないなと思っているし、なんとか他の言い方はないのかと息子の主治医が講演していた学会で質問したこともあるのですが、満場一致でしっくりきそうな呼称はまだありません。私もこれをずっと問題視しています。私は時に“高知能障害”というワードを使ったりもしてみますが、なんかもう一歩って感じ、もうちょっと上手いこと言えそうだなと検討中。
ギフテッドとは、やはり諸外国では英才児を示しています、その子の成長のために必要なサポートを要しますよという姿勢。一方で、本邦においては今は優秀さよりも画一的な教育では対応難だということで要支援に重きが置かれています。まぁ親にしてみりゃ息子は真に要支援児童だと痛感しておりますので、まずは日本でもギフテッド児がその健やかな成長に適した対応を要することそれ自体が定着していってほしいと私も強く願っています。
さて、“ギフテッド”という言葉に内包される「特別感」「優れていそうな」と書きましたが、実際は何にも優れていないこともまた当事者および周囲の違和感を募らせます。これにはきっと、当サイトへ流れ着く全保護者が強く共感してくださることでしょう。(自分で言うから良いのだけど、ギフテッドなんてポンコツですよ、本当に。)
実際には、不登校に不適応、希死念慮も持ちやすいなんて言われているし、精神疾患の罹患率も高いのだと言われます。息子も先日、癇癪ついでに『もう死ぬ!』と叫んだことは私はグッと辛かったし、何も言えなくなりました😭書籍などでも人生を諦めてしまう成人ギフテッドは多いことが書かれますし、良いことなんかなんもないよ。社会の中で生きていくだけでも大変で、だから要支援児童なんですよ。それで文部科学省も支援に乗り出そうとしておるんでしょう(↓)。
だけど確かに、能力的には高そうなのも事実です。私もそうであるのですが、大方のことは人よりずっと短い時間で習得できてしまいます。なぜそういうことができるのかの理由は単に、本質を掴むのが早いから。だけどその能力を使いこなすまでに至ることの険しさはあり、それすらもまた好きなことにしか集中力を発揮しない(できない)という限局性が内包されているのだからやっかいです。
いやいや、私にしてみりゃ、登下校の時間帯に友達同士で部活動の道具とかを背負ってどうでも良い話をしながら笑い転げて歩道を歩くあの子たちこそがよっぽど素敵で優れていると思うよね😢なぜ我が子はああではないのか、我が子にもああなって欲しかったと、私は今も思っているよ。
字面が良くない。誤解と偏見のもとである。とにかくこれには早急な改善が求められます。
あー、でも優れていそうな響き=嫌いというのは、ちょっと道理が通らないのかな?
優れていそうな響きなのに、実際には優れていないから嫌いという意味合いでしょうか。どうでしょう。
二つ目に、ギフテッドという言葉が示す曖昧さを挙げてみましょう。
突然ですが、実は私は食べ物では人参🥕があまり得意ではありません。普段から私は自宅では人参をほとんど食しません。我が家は不登校かつ料理男子である息子が夕食を作るのですが、息子はそれを知っているため、

お母さんのお皿には人参少なめねー。
と配慮さえしてくれています。
もちろん私は大人なので、外では食べるよ、平気な顔で。また、私は人参が好きな人も世の中にはたくさんいることを知っているし、その人参を丹精込めて栽培された方が居ることも知っています。必要もないのに敢えて語気を強めて『人参が嫌い!』などと言うことは私は絶対にしませんが、まぁここで話の流れで仕方なく言ってしまえば人参は私の口には合いません。あの半端な甘さが私の味覚に沿わない感じです。
はいここで、人参という言葉は人参だけを指しています。そのモノ自体を指す言葉。
これに対し、ギフテッドという言葉はそのモノ自体を指す言葉ではありませんね。ギフテッドとは、ある共通項を持つ人の集団をぼんやりと指しているだけの言葉です。つまり対象が広すぎる。
“ギフテッド”という言葉と同等そうなものを挙げれば、“野球選手”とかもそうですね。“噺家”とか“相撲取り”、なんなら“東京都世田谷区民”とか“岐阜県民”とか“左利き”とか“血液型AB型Rh(-)”なんかもそうだよね、笑。
その中には、穏やかな人もいれば気性の激しい人もいるでしょうし、とにかく個々に他人なのですから色々な人がいて当たり前です。世田谷区民にもAB型Rh(-)にも、きっと嫌われ者はいるでしょう。同じように、ギフテッドにも嫌われ者は絶対にいます。
そのような対象の広さから、その集団の一部が嫌いだからと言う理由によって『私はギフテッドという言葉が嫌い』はありえるかもしれません。(苦しいか?笑)
三つ目を挙げれば、“ギフテッド”とは面倒臭いしわかりにくい人だからかもしれません。能力的には高そうなのかもしれないが出来ないこともたくさんあって、不登校や不適応、精神疾患に陥りやすく、とにかく一筋縄では行かない人で、どこの何に焦点を当てれば良いのか全くわかりづらいためにその対応方法もわかりにくい。
“発熱”とかならそのモノ自体を指す言葉なので、対応方法は解熱剤または水分および安静です。わかりやすい。
だけどとにかくギフテッドという言葉が指すものがわからない。そのために、そんなわかりづらい人に向き合わねばならない心理士という職業に在られる方が「ギフテッドという言葉が嫌い」とおっしゃるのは理解できるかもしれません。実際に迷惑を被っているわけですからね。
ちなみに、そんなわかりづらい人たちに向き合うことから逃げられないのがその親です。親はもう嫌いだなんだ言ってられない。どんなことがあったとしても目の前の我が子に向き合うしかないのだから、そんな我が子の状態を外に説明する言葉が“ギフテッド”しかない以上、嫌いだ云々言ってられずに用いるしかないことが現状です。良くやってるよね、親はホンマに。泣けてきますね🥲
まぁこの辺までにしておいて。
心理士さんのお気持ちを少しは理解できるかもしれないところまで来ましたが、それでもやっぱり今日のここでは『嫌い』という言葉を軽々しく使うことへの苦言を呈して締めくくりたいと思います。
対象が人でありますし、『嫌い』という言葉を使うのはもっと慎重であってほしいです。慎重と言うよりも、最終手段でお願いしたいと思います。
なぜなら言われた方は否定されたと感じるからです。悲しみにも陥ります。
冒頭の、LINEをくださった方も書かれていました。

何で嫌いなのか?とも尋ねる事が出来ない程にキッパリと‥🥺
ギフテッドだと言わない方がいいのかなと思いました🥺
今はまだ“ギフテッド”以外の呼称がないので、使う方もなんだかなと思いながら発している言葉です。それを真っ向『嫌い』だなんて言われたら、言われた方はこの先の行動を制限されるトラウマのような状態にさえなってしまうじゃないですか。暴力的だとさえ感じます。
もちろん嫌いという感情自体は誰しもあって当然です。それを言葉にするのはどうかどうか慎重にという話です。
ギフテッドという言葉の先には人が居ますから。
私もそうです。息子もそうです。私や息子の存在が、何か社会に多大に迷惑をかけたでしょうか。
ギフテッドという言葉の先には繊細で、不登校や不適応などの辛い状態にも苦しんでいる弱くて儚き若者が精一杯に、生きづらさを抱えながらも、なんとか生きようとしています。理解されない孤独の中で、時にもしも理解し合える人に出会えたら本当に嬉しい、救われる。そんな小さな支えの中で倒れないように私たちはなんとか立っています。
だからそんなに強く嫌いだなんて言わないで。生まれつきで、本人にもどうしようもないことなのです。
もしもその言葉が嫌いという本態が誤解や偏見に基づくものであるならば、いずれきっと晴らせる日が来てほしいとも願っています。
だからそう。
どうしても嫌いだと仰るならば、その理由もぜひともどうかお聞かせいただけましたなら、対話の準備が整う日もくるのだろうと思っています。
ーーー書籍紹介ーーー
いずれの書籍も支援を要することが書かれています。等身大のギフテッドがもっと広く知られるようにあってほしいです。










コメント