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“当たり前”を見直し互いに補正することが大切です

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徒然思うこと

みなさんこんにちは✨

今日も当サイトを見にきてくださり、ありがとうございます✨

先週から今週にかけて、私が子供の頃の話を振り返ることで『発達障害の特性が、大人になるにつれて(少しは)マシになる』ことへの道のりを書いてきました。

 

この記事について私は、どういう受け止め方をされているのかなぁと考えることもあります。

書いたことは全て、私から見た事実です。

だけど客観的に見るとどう見えるのかな?と思うわけです。

 

子供の頃、私はやっぱりコミュニケーションも上手く取れないし、なーんかちょっと別世界で生きているような、そんな子供だったと思います。

しかし私は、自分でもどうして良いかわかりませんでした。

その“どうして良いかわからない”という気持ちが即ち“生きづらい”と言われるものの本態だと思っています。本人なりにやっているのに、それが世の中に照らすとどうにもズレているわけですから。

だけど私は成長に伴い知識や経験を積み、特に中学生以降には『自分は突き詰めていけば何が原因でこうなっているのか』『それに対し最も有効な対策は何か?』などをじーーっと考え続けて試行錯誤をしてきたと思います。

しかしそれも、客観的にはどう見えるんだろうなって思うわけです。そんな試行錯誤の間にも、変わった子だと思われていただろうか、とか。関わりたくない、関わるメリットはないと思われていただろうな、とかです。

 

大人になり、これでも私は少しは丸く、マシになってきたと自負しています。

自分の特性と向き合い、それでも私には自信をもって出来ることがあると気づき、やれば認めてもらえるという成功体験を積むことで如何に人生を生きていくかを見出しながら“適応した”のだと思います。

今では人とのコミュニケーションにも困りません(必要があれば、よく喋る方だと思います)。私と話して、その人が楽しいとか面白いとか思ってくれたら嬉しいなっていつも思って接しています。

 

だけどやっぱり発達障害の特性というものは、“治る”ものではないのです。

知識と経験で補正されているとはいえ、やっぱり今もズレを感じることはあるわけです。知識と経験が少ない息子は尚更ですわね。

先日の文章題(↓)の解釈に関する記事は、意外なほどに多くの反応をいただきました。

多くのご意見が私の夫(←定型発達の人です)と同じ解釈で、『次のテストって言ったら6回目。他の意味には読めないよん』という派でした。

だけど面白かったのは、その多くに『言われてみれば、私と息子の解釈の仕方もわからんでもない』ということが付言されていたこと。

やっぱりそう思う!?そうでしょー!

さらにありがたかったのは、私(と息子)の解釈がおかしいだろう!と非難する声は一つもなかったことでした。

 

そのなかでも印象的だったのは、『どうして自分はテストが6回目という発想が出てくるのか?』を深く考察してくれた方がいらっしゃいました。

認識の差異の原因は“5回のテストの平均点”という言葉を、『1回ずつの5回のもの』とバラで受け取るか、『5回のテスト』という一塊で受け取るかの違いだね、と。

バラで受け取れば“次のテスト”は次の1回なので6回目であると、無意識にかつ自動的に認識されるに過ぎません。だからそう受け取る人(出題者)は別の意味に取られる可能性があることすら思い付かないのではないかという話でした。

K先生
K先生

この認識の違いがどういう仕組みで出てくるのか、深い問題なのではないかな。

もしかして、気づかないだけで、このような認知(?)の仕方の相違って他にも色々あるのではないかしら。それが発達障害というものに関係するのか、もう少し掘り下げてみたいね。

掘り下げ方も、例えば算数の文章題であれば答えを導く過程を評価すればどのような認識の差異があるのか調べることは可能だし、情報を集めて研究することが可能だろうと。

そうして具体的なことがわかれば、今回の問題だって、もっとわかりやすい(6回目のテストでは云々)表現をするべきだっていうように諸々変わっていける気がする。

そうおっしゃってくれました。

 

ここで思ったことは、発達障害を抱える人が知識と経験をもって補正しながら適応して生活をしていかざるを得ないことに加えて、大多数の定型発達(←決して発達障害と対比されるものではありませんが、敢えてこのような表現を使わざるを得ませんのでこう書きます)の人も、『当たり前』が本当に当たり前かを今一度見つめ直し、誤解が生じうる場面を補正していくことで、社会が変わっていくのかなということです。

 

私は、自身の経験から、定型発達の人の方が優れているとは思いません。

発達障害だからといって、何もできないわけじゃない。そして定型発達だからといって、全能の有能者ではないということです。

ちなみに私は、たまにメディアに取り上げられる『あの人も発達障害を抱えていたんだよ』という類の話は全く好きではありません。

大きな功績を残した著名人が発達障害を抱えていたのはたまたまであって、全ては本人の努力と環境の賜物であり、彼ら/彼女らは発達障害のおかげで功績を残したわけではないと思う。

そして、その努力を全ての発達障害者に求めるような言われ方も好きではないです。発達障害=何かしら才能がある=だから頑張れ、みたいなやつね。

 

定型発達の人だって人とぶつかるし、誤解やトラブルから不登校や引きこもりにもなるじゃないさ。発達障害者は何人に一人がスティーブ・ジョブスになるんだと思ってるの!?

そんなメディア報道を目にすると、発達障害と定型発達の極端なイメージの枠を作られているようで、なんだか嫌な気持ちになってしまいます。

どちらも異質ではないし、特別ではない。お互いにわかりやすい表現の工夫をしていくことで、みんなが生き易くて苦労が減る。

目指す方向性はそんなだな。

そんな想いを抱えつつ、来週はまた『発達障害: 大人になればマシになる?-私の場合』シリーズの続きを書いていこうと思っています。

 

この週末もお天気は悪くないみたいですね。

みなさま、良い週末をお過ごしください✨

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