みなさんこんにちは✨
今日も当サイトを見にきてくださり、ありがとうございます✨
今日は広島の原爆の日ですね。
私は広島に少しゆかりがあることもあって、この日を毎年とても重要視しています。今年も子供たちに話しました。戦争はあかん。日々積み上げた努力と幸せが、どうか子供たちの生涯を通して永く続くものであって欲しいと願っています。
さて、今日は先日の続きをまた少し書こうと思います。
先日、私は当サイトの記事(↓)で
と書いたことをきっかけに、『では同じような発達障害傾向を持つ私の特性は、成長に伴いどうやって丸くなったのか?』というコメントを投げかけてもらいました。
そこでここ最近は私自身の特性について考察し、私の意識が変わったきっかけを追っています。
今日で“その4”となります。
中学生〜高校生の前半頃までを書こうと思います。
“内申点が低すぎる”という評価になる
私は私で過ごしていたのに
前回までに、子供の頃の私の困難として、
- 人前で話せない(場面緘黙)
- 集団行動が得意でない、周囲に合わせられない
- 抽象的な指示が理解できない
- 感情の振れ幅がやや大きい
といったことがあったかなぁ、ということを書きました(↓)。
ちなみに私がこの頃に自身で経験したことは、私が息子の中学受験を検討した動機の一つです。以前の記事(↓)にも触れていました。今日はそれに加筆するように書こうと思います。
人前で言葉を発したりものを言うことができなかった(場面緘黙というものらしいです)私ですが、中学生の後半頃になると私は妙な自信を育むことで、少しずつ、人前でも発言できるようになりました。
しかしそれらも協調性やコミュニケーションとはまた別物の、極めて独特なやり方だったのかなと思います。
中学生の時、学内の合唱コンクールというものがありました。私は歌が好きなわけではなかったし、合唱コンクールも全く好きではありませんでした。
しかしクラスメイトは目標に向かって一致団結し、放課後にはみんなで残って練習しようと言っています。そんなクラスメイトに興味を向けることもなく、私はスッと帰りました。なぜなら私は、『どうして練習しなければならないのか』がわからなかったし、自分には関係ないと思ったからです。
ある日、放課後にスッと帰る私を指揮者の女の子が泣きながら追いかけてきて、『ちゃんと練習してください!』と涙目で訴えられた記憶が残っています。
だけど私は規定の音楽の時間などにはきちんと練習していました。当日ももちろん参加するつもりでした。しかし放課後にまで練習する必要があるなんて、私は理解できていませんでした。
だから『あ、私はいいので👋』と言って帰りました。女の子は泣いていました。だけどどうして泣いているのか、私にはよくわかりませんでした。
また、私は自転車通学をしていたため、その登校時と下校時には学校指定のヘルメットを被るように学校の規定(?)で決められていました。
だけど私はこれが好きではありませんでした。なぜか装着がすごく不快であったことに加えて、どうして通学時だけ被らないといけないのかがわからなかったのです。家から学校ではない場所に行き来するには被らなくてもいいのに、だったらなんのためのヘルメットなの?
そんなわけで私はヘルメットを被らずに登下校をしていたのですが、何度か中学校の教諭に見つかり注意をされました。
中学3年生にもなると、『ノーヘルは内申点が下がるぞ!』と言われました。
それに対して私は『どうしてヘルメットを被らないといけないんですか?』『どうしてそこで内申点が出てくるんですか?』と尋ねた覚えがありますが、「そういうもんだろ」という答えしか得られなくて、私は納得ができませんでした。
幸い無事故で3年間通学できたのでよかった(?)ですが、そんなこんなで、私の“内申点”とやらはどうやらものすごく低いものであったようでした。
勉強は出来ないわけではなかった
中学3年生の夏、私は母に勧められて、電車で2駅行ったところにある学習塾の2週間だけの夏期講習に参加しました。
私があまりにも勉強をしない(←私にしてみれば、勉強の仕方がわからなかっただけなのですが)ことを心配されたためだったように思います。
中学生の時、私の成績は2年生までは安定せず、1学年450人中の50〜100位くらいをウロウロしていました。
明確に覚えています。この中3の夏期講習が、私の意識を変えました。
ここで私は“勉強の仕方”を習得することができました。それからは見たもの聞いたものが私の頭の中でカシャンカシャンと音を立てるように面白いように繋がって、『あぁ、そういうことか!これはこういうことか!』と体型的な回路がどんどん組み上がっていくようでした。何よりもわからないことがあれば塾の講師が納得がいくまで何度も教えてくれたことが嬉しかった。私は家で勉強をしていって、時々は授業の後にも質問しました。時間がある時は自習室でも勉強しました。集中すると時間があっという間に過ぎました。その疲労感は、とても気持ちがいいものだと私はこの時気が付きました。
2週間の夏期講習が終わる頃、私は富山県の高校受験を想定した200点満点の模試で180点程度を取るようになりました。夏期講習最後の面談では、塾講師が母に驚きながらも成績を話し、
すごく伸びたね!行きたい学校には、富山高校でもどこでも好きなところにいけますよ!
と褒めてくれたことがとても嬉しかったと覚えています。私の母にとっても印象強かった出来事だったのでしょう。私が大人になってからも母は『あの時は嬉しそうだったね』と事あるごとに言っていました。
それから校内の成績もぐっと上位で安定しました。
母はしょっちゅう学校に呼ばれていたと言っていた
卒業が近づくにつれ、進路相談やら何やらで保護者面談の機会が増えました。だけど私の母はそれだけではなく、なんだかしょっちゅう『中学校にまた呼ばれた』と言っていました。
なんの用件で教師が母を呼んだのかは私は今もわかりません。母が私に何にも言わなかったからです。
だけど時々、母は私に、
『学校、あんま楽しくないが?』とか、
『あんたにはあんまり中学校が合わんがかもね』と言っていました。(※口語に“が”が入るのは富山弁です)
話は現在に飛びますが、私の息子が昨年に心理検査を受けた時、その結果を聞きに行ってフラッシュバックのように思い出したことがありました。
私が子供の頃は小学校や中学校で、知能検査とやらのテストを学年全体で受けました。何か図形の切り口だったり、記憶やパターンを推察するみたいなテストでした。私はそのテストが面白かったので好きでした。
しかしその結果が出ると、私の母はいつもいつも呼ばれていました。
『どうしてお母さんだけ結果を聞くの?』と私は母に尋ねたことがありました。結果が私自身に知らされないことと、他の人は親が呼ばれていないことが不思議でした。
それについて母は確か、『あんたの知能指数は高すぎてちょっと目立つみたい』と言っていました。うん、確かそんな言い回しでした。
これを昨年、私は息子の心理検査の説明を受けながら、この時の母の言葉を思い出していました。
私の息子もまた高IQで、だけど詳細な項目ではガッタガタの不揃いな数値が得手不得手のバランスの悪さを思わせるような結果でした。
あぁ、やっぱり。
私は息子の結果をみてそう思いましたが、同時にかつての母の言葉を思い出し、もしかしたら私が子供の時もこんな結果だったのかもしれないなと思ったわけです。だから母は私に発達障害の傾向があることを知らされるべく学校に呼ばれていたんじゃないかなって思いました(完全に推測ですが)。
私が子供だった1990年代はちょうど発達障害が注目され、教育相談への関心も高まった頃です。今となっては分かりませんが、『私はあの時、もしかしたら何か特異に思われていたのかなぁ』と今でも思ってしまいます。
さておき。母は、私の学生生活の様子を聞き及び、また私の“内申点”とやらが低いことを事前に知っていたと思われます。
母は私に『農業高校に行ったら手に職をつけられるよ』とか、『庭師とかは一生やっていける仕事だよ、しかも儲かるんだよ』とよく言っていました。
しかし私は受験を想定した模試では高得点が取れるばかりかさらに上がり調子であること、学内の成績も悪くないことを密かに自信に思っていたので、母との会話は噛み合わない感じで続きました。
実際に、中3の秋?の進路相談で私には進学校は受けられないと担任教諭から言われた時。
勉強が楽しくなっていた私はその言葉に喰ってかかりましたが、母は黙って聞いていました(↓)。どうして母が反論もなく納得したように聞いていたのかが、当時の私には全く理解ができませんでした。
高校生になって
親友との出会い
こうして私は家の近くの比較的新しい中堅校をなんとか受験することに落ち着いて、残りの中学生生活はただ黙々と勉強をして過ごしました。休み時間も、授業中も。ずっと自分のペースで勉強を続けていました。ある時、体型がふくよかな女の子に向かって『豚みたいだよね』って言ってしまって、担任教諭にも白い目で見られて、クラスの中での居場所はますます狭くなっていました(←今更ですが、私は悪意があっていったのではなく、思ったことがそのまま口から出たような感じでした。名前も顔も覚えています。ふくよかで育ちが良さそうな、柔らかい印象の女の子でした。その節は失礼な物言いをし、本当に申し訳ありませんでした。)。
高校受験の試験当日、私は満点に近い点数を取ったはずだと思いました。仮にうーんと迷った箇所が不正解でも1つか2つ。合格発表も見に行く必要はない。なんならトップ入学かもしれないわ。
そう思って入学式に臨みました。
だけど入学式で挨拶をした“首席合格”という女の子はとても小柄で可愛らしい人でした。さらに、高校1年生の最初の実力テストでも、私は1番ではありませんでした。
結構、本気で頑張ったのにな。
悔しかった私は『1位の人との点数差はどれくらいですか』と担任教諭にそのまま尋ね、1位は誰なのかを聞き出しました。それは同じクラスの、入学式で挨拶をしていたその小柄な可愛い女の子でした。しかも点数の差は、私が思ったよりもずっと大きく開いていました。
私は彼女のことが知りたくて、その日の放課後に彼女にそっと話しかけました。
以来、彼女は今も私の親友、いちばんの理解者の一人です。40歳を過ぎた今でも、関係はちっとも変わっていません。
私は高校1年生の春から彼女に色々なことで叱られ、笑われ、教わりました。私がやることも『だってNaomiだからしゃあないわ!気ぃつけられよ!😁』と笑って流してもらいました。
人望のある彼女の周りで、私はたくさんの友達ができました。
何より嬉しかったのはその環境の中で、誤解なく、そのままの自分で過ごすことを受け入れてもらったように思えたことでした。
彼女には今も頭が上がりません。だけど気が置けないとても心地よい友達です。
学校に行くことがこんなに楽しく有意義であると、私は初めて知りました。
明るく、好奇心を素直に表せるようになっていった
それから私は喜んで高校に通い、新しくできた友達と競い、生涯の恩師と呼べる人に出会いました。性格は明るく前向きに、まだまだ斜に構えたところはあるけどそれを遠慮なくストレートに指摘してくれる人たちの中でとても充実した高校生活を送って私は成長しました。
私は友達や恩師を心から信頼し尊敬しました。だから、彼ら/彼女らに少しでも認めてもらいたいと思っていました。
そのために大事なことは、人に合わせるのではなく、合わせてもらうのでもなく、思いやりの気持ちを持って接することなんだと私はここで知りました。これも、高校時代の仲間の一人が私に真摯に教えてくれたことです。『思いやり』という言葉に、私は雷に打たれたような衝撃を受けたことを覚えています。私が『思いやり』という概念を理解した瞬間でした。
また、その友達は『話し合い』の重要性も教えてくれました。お互いに誤解が生まれないよう、本音で話し合うことが大切だと知り、本当にその通りだなと私は深く感銘を受けたことを覚えています。
この頃、私の気持ちはどんどん前向きになりました。好奇心もどんどん高くなり、興味のあることには『やってみたい!』と自信を持って手を挙げられるようにもなっていました。学年を超えて友達ができ、部活動やスポーツ、街に出ること、人と話すこと。いろいろなことに挑戦しました。
私が適任かどうかは私が判断することではないので、希望があれば言うだけ言うのはオッケーである。ダメでも命が取られるわけじゃないのだし、失うものは何もない。
そんな開き直りのような強さが、この頃の私に備わりました。
スポーツに邪魔だからと、長かった髪をバッサリ切りました。加減が分からず何度も切ってどんどん短くなっていき、一時は坊主頭のような状態にまでなりました。
別の時には校則では禁止されていましたが、興味があったので髪を染めてみたりもしました。しかもオレンジに。(←母が美容室代を出したはず。何考えとんねん、母、苦笑)
すぐに先生に叱られましたが、なんだかそれも学びであったような気がします。
このような私の経験は、発達障害を持つ子が健全に育つ上で周囲の環境がいかに重要であるかを示す事例の一つであると思います。
このような環境に巡り会えれば、どんなに伸び伸びと過ごせるでしょう。
そんな環境が、どうか誰にも必ず訪れてほしいと願っています。
高校2年の時。校内で海外研修の派遣団が構成されるという話がありました。
私は、幸運にもそれに参加させてもらえることになりました。初めての海外。わずかな期間ではありますが、アメリカの家庭にホームステイをしながらアメリカの高校に通う機会を得ました。その間、全てを自分で対処しなくてはなりません。私は大きく意気込みました。
そして実際に海外で生活したその経験が、私の両目をパッと開かせたような。そんな大きな衝撃を伴う価値観の変革が、私の中で起こったことをよく覚えています。
そんな話はまた次回にでも書こうと思います。
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