みなさんこんにちは✨
つい先日、私は当サイトを読んでくださる方から薦めていただき、こちらの書籍を読みました(↓)児童書ですが、大人も大いに共感できる内容です。また、難儀な子供を育てる保護者の多くが苦手としうる“見守る”という姿勢のあり方とその覚悟にも触れられて、その点でも私は感銘を受けました。
私の感想は一旦横に置いといて。伺った話では、こちらの書籍は最近の中学受験に関連する何かの試験で国語の問題文として出題されたものだそう。
息子に国語のテストに出た物語文を読みたいと言われて。すごくいい本でした。いろいろと刺激を受けたようです。
きっと息子はテスト中に感情移入しちゃったんだろうな、と…。
物語は、その優秀な学業成績を発端として教室内でいじめを受けた主人公が民族問題に直面し、想像することの大切さ、多様性への気づきを得て成長していくお話です。見守る保護者も素敵でした。一部を抜粋いたします。
ちがう、こまることある。でも、どちらも大事。違うこと悪くないし、ちがうこと、きらったらだめ、いちばんわるい。人はみんなちがう。(中略)
賛成だけど簡単じゃないこともある。僕がいじめられたのは、良い意味でも悪い意味でも、教室の中で目立ったからだ。みんなと違うからだとも言える。学校では目立つのをみんなきらう。いじめられるかもしれないからだ。みんながおなじだったらどうだろう。面白くないどころか、気持ちが悪い。
茶畑のジャヤ: この地球を生きる子どもたちより
他にももっと示唆に富む素敵な物語ではあるのですが、
ちょっとね、私はやっぱり思ってしまった。
『みんな同じだったら気持ちが悪い』のは多くの方が同意なさることだと思うが、それではなぜ、今の日本では“普通”であることがこれほど過度にさえも重視され、“普通でない”ことが居心地の悪さや批判の対象にも直結するのかが分からない。たとえそれが学業成績が優秀などの些細な違いで、違法とかのレベルじゃなくてもです。
日本という国では特に同調圧力が強いのだと、そんな話もよく聞きます。(いや、外国がどうとか私は直接実体験はしていないから知らないのだけど、例として😅)
その背景には民族の文化もあるでしょう。日本は地理的にも特徴的だし、村社会や家制度で集団意識やコミュニティの調和重視の文化がすっかり根付いてしまっているのかもしれません。そのような社会があまりに長く続いたので全体の意向や慣習こそが尊重されて、自らの考えで行動原理を決めるような人は“我儘ばかり”とか“変わり者”と煙たがられたり排除されたりしそうなことは想像できる気もします。
だけどどうして、みんな同じ=気持ち悪いって感じる心は共通なのに、違えばそれはそれで疎ましいとか、よく分からん🤔
その理由の一つとしては、『多様性』と『効率』は元来真逆だからってところでしょうか。
日本では一般的に“個人主義”や“我儘”は否定的に捉えられます。組織の中では特に避けられる人格特性の一つでしょうし、家の中では小さな子供も『わがままを言うんじゃない』と躾けられているものです。効率が落ちるからなんじゃないかな。もともとそんな素晴らしい効率のパフォーマンスを発揮されておられるのですか〜とか伺いたくもなりますが、グッと飲み込んでおきましょう。
と、そんなどうでも良いことを考えていると(笑)、これはなかなか面白いなと思えてきました。
想像するとなんだかさ、“普通”を遵守する普通人が実は自由人に抱くのは嫌悪感とかだけでなく、もっとなんとも清濁合わさるような想像以上に複雑な感情なのかもしれないな、とも思うのです。
近年ではインクルーシブへの理解も進み、おそらくこの先の未来を生きていくのはダイバーシティの世界においても快適に暮らせる、そんな人が住人なのだと思います。人はみな違うのだという前提で、それぞれの違いを認識しあって『へーそうなんだ』と思うだけ。適材適所。そうであってほしいです。多様性が重要なのは、その方がみんなが楽になれるからかもしれません。みんながみんなで足並み揃えて、例えて言うなら全ての科目で高得点を取るような競争を勝ち抜かなくても良いわけですから。
だけど一方、効率と多様性は真逆であることも実際です。
するとほら、多様性に関する課題をトップダウンで解決するのは難しいという結論にも至りそう。
多様性の社会に向けては、やっぱり個人レベルのことからでも誇りを持ってボトムアップでやっていくしかないんだろうな。私は、私の最愛の難儀な息子が大人になる社会に向けてこそ、出来ることから少しずつでも働きかけていくことに今少しの意義を見出したようにも感じました。
と、主題とはやや逸れますが、私はそんな感想もまた持ちました。
とても良い書籍でした。お勧めいただき嬉しいです🙏もしも読まれた方がおられましたら、ご感想などお聞かせいただけると幸いです。
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