みなさんこんにちは。
今日も当サイトへお越しくださり、ありがとうございます。
突然ですが、今日この記事を読まれている方の中に、直接私と会って話したことがある人は、どれくらいおられるでしょうか。私はよく、実は人からこんなふうに言われることが多いです。

エネルギッシュな人ですね。
または、こんなふうにも言われることも多いかも。

よく喋りますね。
お話上手ですね。
それは私の息子も、そして娘から見た私の印象も類似している様子です。

お母さんのお友達はみんな早口でよく喋るから、やめとくわ。(←一緒に行く?と誘ってみた時)

今日も「ペチャクチャ軍団」の活動をするの?(←なんじゃそりゃ!)

確かにね、私は、好きな人や気の合う人、共通の関心と話題がある人とは割と楽しく話せます。情報を共有し合いたいという好奇心、励まし合いたいという仲間意識、そういうものに支えられているからです。また、私はこれまでの出会いや経験、思考から話題の引き出しのようなものがかなりたくさんありますので、場面場面に応じていろんな議論を引き出せます。
だけども。
私自身は、私のことを自閉(ASD)傾向があり、かつ、比較的無口な人間であると思っていたりしています。そう、さらに言うなら、私は元場面緘黙児でもあるわけで。
実は私は、薄暗い部屋でずっと好きな本など読んでいたい。またはPCの前に黙って座って、やりたいことだけしていたい。自分のペースが守られるなら、ずっとそうしていたいです。
自分なりに捉えているのは、私の興味関心の動き方とか、その興味関心への突き詰め方とか、時に発揮される爆発的な行動力、ゾーンに入るような集中の仕方(いわゆる過集中)は、実に“私らしい”特徴であると思っています。その関心に関連して人と話す時だけは割と活発に動きますが、いつでもそうではありません。(具体的には、よく知らん人もいる飲み会とかは苦手です、どうして良いかわからないし、すごく疲れてしまいます。)
ちなみにそのような性質は私の息子も全くそうです。息子は私の生き写しのような子供です。
しかしながら、昨今は、なんというかあちこちで“コミュニケーション能力”とやらの重要性が著しいほどに台頭してきているようですね。これは私のような人種には逆境であり、厳しい時代になりそうだなと思わされることが多いです。
もちろん時代時代ごとに、その社会的背景に依存して、その時に生きる人の全般に求められる能力というのは変遷していくことが当然です。たった60年前と今とでさえ、求められる能力は異なる部分も多いでしょう。
今これからの時代背景が求めるものが、コミュニケーション能力というものなのかしら。
あまりに多くの場面でそれを見聞きすることが増えました。
なんでもかんでもソーシャルスキル、コミュニケーション。そういう言葉に含みおかれて、黙って何かをしていたい人には厳しい世の中になりそうです。
昨今では基礎研究者の間でもコミュニケーション能力とやらが求められる時代になったようだと聞いた時には驚きました。
つい最近会った後輩が、大学での研究職を探していた際に面接で、このようなことを聞かれたそうです。

あなたはどれだけ人脈がありますか?つまり、どれだけ学生を集めてくることができますか、という意味です。
私と後輩は、その場で一緒に笑いました。『これまでの時代の研究者で、ノーベル賞受賞学者を並べてみても、人を集める能力に長けてた人間をいますぐそこに連れて来てみろよ!笑』と。人は研究の場や研究成果がそこにありこそ、集まるものではないのだろうか。研究者に黙々と基礎研究を推進させてやる環境を与えることこそ、それにつながるはずなのに。もはやその大学自体には、学生を呼び込める力はもう無いということなのか。
少し前まで、“大学の先生”って、変わり者ばかりでした。自分の興味関心を、好きなように好きなだけ集中して突き詰める。それが基礎研究者に求められる資質でした。しかしながらこれからは、そこにさえもスタバで働く店員さん達さながらの朗らかさや人のつながり、ネットワークが求められるようになるとしたら、とても厳しい環境です。私たちのような人は当面の間はどこで生息すれば良いのだろうか、なんでもかんでもコミュニケーションと言うのは易し、ですがこれは厳しい世の中になりそうで深刻に悲観してしまいました。

私の息子も、15歳になりました。無口な彼がこれから生きようとしていく社会は、彼にとってはやや厳しい時代になるのかもしれません。
それはそれ、これはこれ、でそれぞれの良さを発揮すれば良いだけだと思うんだけどね。なんでもかんでもコミュニケーション能力という安易な言葉で多くばかりを求めないでくださらないか。





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