みなさんこんにちは✨
先週に当サイトで話題に取り上げました“ご挨拶言葉”の件ですが、これがまた想像以上に多方面から論議を醸しまして(笑)多くの方にとって大変興味深い話題だったのだなぁと感じています。
コメント、メールやLINEでご意見を下さった方々、ありがとうございます!おかげで私にも色々分かってきましたよ!
先の記事内で、私は『北海道のビールを飲んでみたい』と言った親戚に、本当にビールをお送りしたらとても驚かれたので困惑したことを書きました。
そして、思っていないなら言わなきゃいいのに。
ご挨拶言葉って、結局はその場限りの意味なし言葉だったのね。
と、私はそのように結論づけておりました。
しかし、この記事を読んでくださった思慮深い方から教わって、ようやく私にも真の意図を理解することができました。
そう言われれば、理解できる!
私にも心からそう感じられたご解説がありましたので、今日は私の無知のお詫び方々、それらについてご紹介させて頂こうと思います。
ご挨拶言葉は難解であることには変わりはないが、そういうことかと私でさえ納得できるそんなご解説をいただきました。
ご挨拶言葉は、相手と良い関係を築きたいという想いをあらわすための、そんなツールなのかもしれません。
言葉を尽くして私にも理解できるように教えてくださったEさんに感謝です✨たくさんのご意見をいただいた皆様、ありがとうございます!
ご挨拶言葉は好意と喜びの表れである
ご挨拶言葉の地理的偏り
ご挨拶言葉というものの存在を知ったことは私にとって大きな衝撃でしたが、振り返ってみれば大変興味深いものですね。
私は富山県(北陸)で育ちましたが、私の親戚の中には一部“ご挨拶言葉”の使い手(←笑)がいたものの、日頃はそれほど遠回しな言い方はしなかったように思います。(私は富山に18歳までしか住んでいなかったので記憶が薄れただけという可能性も捨てきれませんが。)
その後進学のために移った札幌市(北海道)は、ドライな人が多くて割とはっきりものをいう地域でした。
また、このお話を教えてくださったMさんによれば、関東にもご挨拶言葉はありません。その理由として考えられることは、多様な背景を持つ人が集まって形成された地域社会においては言葉しか頼りになるものがないからだろうということです。
一方で、面白かったのは西日本の方々です。先の記事にコメントをくださったシーナさんは福岡県のご出身。
とりあえずの相槌とかで気軽に使うよね、感嘆符。
また、LINEをくださったSさんは関西でもちょっと西の方にお住まいとのこと。
ご挨拶言葉、いやー興味深かったです。私は逆に、「来てほしくない人には『また来てね』って言わない」ということにびっくりです、笑。「さようなら」くらいの意味合いだと思ってました。
静岡県の親戚は、みんなわりとストレートな言い方をします。そういう性格の一族なのかと思ってましたが、地域的な違いでもあるのかもしれないですね。
面白いなぁ〜。直近に聞いた意見だけの少ない母数ではありますが、それだけでもご挨拶言葉への親しみについてははっきりと地理的偏りで説明できそうなところがなお一層に面白いと感じます。“世代”もだけど地域のほうが影響が大きいかな?もっといろんな地域の方にも聞いてみたいですね。関西と静岡の間という意味で、名古屋や岐阜のあたり(←当サイトを読んでくださる方がお二人ほどお住まいですので、今度聞いてみたいと思います。よかったらでいいのでご協力ください。)はどんな感じか気になるところです。東北とか四国とか、海外に移られた日本人はどうでしょう🤣
「暗黙の了解」に対する温度差があるのは、特性・性格だけじゃなくて地域性もあるってことか😊
そうなんですよ。面白いですね。
とはいえね、特性として(私のような)暗黙の了解に抵抗感を感じる人は、無用な混乱を避けるためにも居住地域の選択時にはちょっと気にしておいた方が良いという結論には変わりないです。
いやー。面白いものです、本当に🤣
ご挨拶言葉と本音を見分けるポイント
ご意見ご感想をいただいた際、西日本に縁のある方々からはそれがご挨拶なのか本気なのかを見分けるためのポイントについても言及がなされておりました。
これについて、複数の人で概ねの見解の一致が見られていることがとても勉強になりました。
私が本音だと理解してもらいたいときは、「具体的に誘ってるから社交辞令じゃないからね!マジで誘うよ♪」とか重ねて説明するなあ。
言われたときにさらっとその場で終わった会話なら社交辞令ねって解釈で今の言葉は流していいなって判断するかな。
私が本音かご挨拶言葉かを区別する基準は、重ねて言ったときに再度同じことを言われるかどうかです。
また、このような視点もありました。
この発言がなされた両者の関係や親密度によって、それがご挨拶言葉か本気の言葉か分かれるのだと思います。
すごく親しい関係ではない場合、ビール飲んでみたい、野菜食べてみたいは、「あなたとのコミュニケーションに私は好意的に応じたいと思っていますよ。」ということを表しているだけだと思います。
なるほどね〜。
お野菜の件については、ご結婚の両家顔合わせの場においてはこれから親戚になるのだとは言えまだまだ親密度は高くはなく、これから距離感を詰めていきたいという状況です。私のビールの件についても普段は疎遠な親戚同士、とはいえ、お互いに無下にはできないという間柄。
そのような未だ親しくないという両者の関係性においては、ご挨拶言葉はコミュニケーションの潤滑油としての役割をより一層大きく担う可能性があるってことかな?と推察することができそうですね。
ご挨拶言葉の存在意義はこれだったのか!
さて、今日の主題はここからです。
私は先週の記事において、ご挨拶言葉というものに対してこのような結論を付けていました。
ご挨拶言葉=その場限りの意味なし言葉なのですから。
我々は、世の中にはそのような言葉があると知っておけば十分です。
今思えば、この結論(↑)はちょっと冷たい気がしますよよね…。なんだかバッサリいきすぎていると思います。
今、私は自身を振り返ってみて、自分の無知を棚に上げて早計にも『他人の言葉に意味はないのだ、考慮の必要はないのである』とさえも言わんばかりのそんな思考停止の結論をつけてしまったのかもしれないと、反省の気持ちを感じています。
読んで下さった方にも同じような、冷たく寂しい印象を与えたのかもしれません。そこへ思慮深いEさんより、このようなご意見をいただきました。私はこの方の言葉を読み(↓)、ご挨拶言葉の真の意義について『そういうことか!!』と納得の気持ちを得ることができたのです。
大西さんとご親戚のやりとりも、意味なし言葉の応酬だったのではないと思います。
疎遠だった親戚の若い女の子が、年配の自分と話をしてくれ、ビール送ろうとまで言ってくれた。うれしかったと思いますよ。大西さんに対する好意を表した、そんな「ありがたい」だったと思います。
お電話の驚いた様子は、まさかほんとに送ってきたというのもあったと思いますが、まだ学生の年少者に金銭的負担をかけてしまったという引け目から、ああいう言い方になったのだと思います。
驚きました。
私が冷たく切り捨てるように『意味がない』と言ったものが『実は好意の表現なのよ』と言われたこと、そしてその背後にはコミュニケーションを楽しんでいるという好意の気持ちがあるというむしろとても微笑ましい状況を、私にも理解できるような分かりやすい言葉で嗜めていただくことができたのです。
そう言われると、私にもよく分かったのです。ここでようやく自分のこととして置き換えて想像することができました。
私だって、例えば法事などででも普段疎遠な親戚の若いお嬢さんなんかが自分の隣に座ってくれて、しかも嫌な顔ひとつせずに会話をしてくれたとしたならばそれはどんなに嬉しいだろう、とそこで初めて思いを巡らすことができたのです。
ましてやその子が住んでいる土地のオススメの嗜好品を自分にお送りしたいとまで言われたならば、心から本当に嬉しいですよね😭そんな申し出はありがたくって、私にだって断れるわけがありません。そのお気持ちだけで、心からの感謝の嵐でありがたい!って叫びたいと思うのです。なんなら私は『法事に来てよかったなぁ〜♪』とさえ思いながら帰路に着くかもしれません。
意味なし言葉ではないですよ。好意の表現だと思います。
きっとご親戚の方は、美味しいなと思って、北海道の珍しいビールを飲まれたと思います。
ビールが送られてきて、きっと親戚は驚いたことは本当だったと思います。お返しはどうしようとか、そういうことも絶対に考えたのだろうと思いますね。その驚きが、「冗談のつもりだった」という言表になってしまったのかもなと今ではようやく想像できる気がします。
さぁ、大きな後悔と反省の気持ちが湧いてきました。
あれは意味なし言葉なんかじゃなかったんだ。その場のコミュニケーションを楽しんでくれた証としての、そんな好意としての言葉だったのではなかろうか。
私は言葉を尽くしたEさんのご解説により、ようやくご挨拶言葉の存在意義が少し理解できたような気がしています。ちなみにお野菜の件や『またきてね』問題ついてもEさんはこのような見解だということです。
西日本の祖母の方の言い方が情感たっぷりだったのは、野菜を食べたいことに対する強い思いの表れではありません。
娘の義両親となる人たちに、あなた方とこれからよい関係を築きたい、あなた方に強い好意を持っているということを強くアピールしたかったために、情感たっぷりになったのだと思います。
実際は来てほしくない人に「今度うちに来てね」と言うケースにおいても、同じだと思います。
ほんとうに家に招待したいほどの好意があるわけではない。でも、「あなたと私は敵!あなたとの関係はこれで終了!金輪際会いません!」とまでは思っていませんよ、という、限りなく薄い好意を示したいと思っているのです。
なるほどね。どちらのケースも相手との一体感を生み出すためや、好意を伝えるために使われる、いわば肯定的反応です。
その場には、きっと笑顔の人が居るはずです。
そんな笑顔の集まりを想像できれば、
なるほどね、ご挨拶言葉もそう悪いものではないじゃないか!
と、ようやく理解することができたように思います。
私や息子などの自閉スペクトラム症の特性のある人には親和性が低い様式であることには変わりはないし、誰しも上手に使いこなせるコミュニケーションでもないのでしょうが、とはいえね!無意味であると切り捨てるのも間違っていたと気がつきました。私が大変早計でした。お詫び方々、ここに訂正させていただきます(、._. )、
ご意見を下さった皆様に重ねてお礼を申し上げます。
いやいや、学ぶことばっかりです。追加のご意見等がりましたら、是非お寄せいただけましたら幸いです。今後ともよろしくお願いいたします!🌟
コメント
あはは。実は、そちらの記事を読んで、私もどうにかコメントしたいなーって思っていたんです。私もそのご親戚は、本当に本当に喜んでいたんだと思ったのでー。Eさんが適格にコメントされていました。
私が考えていたのはこんな例でした。近くに住む兄弟と明日の誕生日の話をしていて、ついでに傍にいた甥っ子に「ちなみにおばちゃんバラが好きなんだ!」とか言ったら、本当にバラ一輪買ってくれたとして。猛烈うれしいけど「ごめんね、あんなこと言ってー」って言っちゃう気がしますよねー。
私が住んでいた国では、怪しくない仲良くなれそうな人には「近くに来たらよってね」って言った/言われた気がします。例え、後ほどお互いの意図が違うことが判明しても、多文化社会でお互い共通見解がないことに慣れている文化なので、なんとか対応するような気がします!
笑えますよね、本当に勉強になることばかりで私はとっても楽しいです。今回はEさんにわかりやすく教えてもらってためになりました。ありがたいことだと思っています。
とはいえね〜。やっぱり私には難しい😅バラのお花の例にしても、私はやっぱり不思議だなぁと感じてしまっていることが実際です。
だってさ、おばあちゃんがバラの花を好きだと聞いて喜ばせたいなと思ったのも甥っ子本人であるのだし、実際にお小遣いからバラを買うという決断をしたのも本人に他なりません。それがどうして「ごめんね」なのかは私にはやっぱり難しい…😅
もしそれが『おばあちゃんがバラが好きなのだから、今後の誕生日には必ず1本300円のバラの花を買ってあげなさいよ!』と親などが強制したのなら「ごめんね」なのかもしれないけれどさ…と私は今も思っているけどどうでしょう?笑
多文化社会でお互いに共通見解がないのだと承知しあっている土壌はいいですね。そちらのほうが、やりやすいだろうと思います😅
うん、日本も多文化になっていけば、きっと誤解が起きることに慣れていくと思うんですよね。誤解を避けるというより、誤解が起きたら対応しましょ、っていうのは生きやすそうな社会の在り方ですよね。
あまりいい例ではなかった様子!!!
「ごめんね」は「被害者がいる」「悪いことをしたから」ではなく、相手の負担に思いを致す、認めるという感じだと思います。実際、感謝すべき場面にて謝罪表現を使うことについては、研究もあるみたいなので、以前お話のあった語用論的な議論がなされている分野なんではないかなと思います(google先生調べなので話半分で~)。
お返事遅くなってました😅
「ごめんね」問題について、しばらく考えておりました。謝罪の意味のみならず、ありがとうの気持ちを込めて言うことが、確かにあるね…
例えば遠方から友達が来てくれた時とか、『遠くから来てくれてごめんね(ありがとう)〜』って私も言うわ!笑。しかもお天気が悪かったりしたらなおさら言うかも。そういうことですよね😊
語用論の本とか、今一度きちんと読んでみようかな🤔
今読んでいる本でちょうどこんな表現(↓)が出てきて、そういうことかと思っております。
「ニューロダイバーシティの教科書: 著村中直人」より引用)“自閉スペクトラム者の人たちは字義通りのコミュニケーションを好むことの多い人たちでもあるので当たり前と言えば当たり前の話ではありますが”
当たり前が人によって違うってのが難しいところでもありますが、面白いところでもありますね😊