みなさんこんにちは✨
お元気でしょうか。お疲れなどは溜まっておられはしないでしょうか。
私はちょっと疲れ気味。年度末が近づくにつれ、息子の進級(不登校なので校長先生との面談がありますが消極的な息子をどうするか🤔)、娘の卒園→就学に向けての方々との調整が今こそまさに佳境です。娘の場合は場面緘黙という障害がありますので、ずっと通った保育園や療育施設からも就学先の小学校へ支援情報の提供等を行ってくださるということで大変心強く感じています。
さて。
色々な忙しさに追われつつ、それでも癇癪というものは、いつも突然やってきます🥲
つい先日のことですが、我が家ではやや久しぶりに息子の爆発(癇癪)がありました。物は投げるわ叫ぶわ暴言は吐くわ不貞腐れるわ。きっかけは、些細なことだったのかもしれません。されどどんなに些細なことでも「仕方ない」「これは息子の特性に由来するものだ」と飲み込んで、最終的には私たちがきっかけを引き起こしてしまった状況に工夫をしていかなくてはならないことでもあるのですが…だけどねぇ、こちらだって人間です🥲どういうこっちゃと思いますよ、内心ではね😢
リビングで塗り絵をしていた妹の、新しく買ったばかりのクーピーまでもを床に投げつけたのは許し難い(←ずっと兄のお下がりを使っていたからと新しく買ってやったばかりで娘も喜んでいたのに)。妹は大泣き。被害者はいつも妹です。物当たるなんて最悪だし、見境いとかはないんかいな😢
息子はもう完全に興奮してしまっておりますので、止めに入る夫や私に対しても当たり散らすばかりです。仮にも認知能力が顕著に高く、もう13歳で大人の体格の息子であっても、カッとなれば感情のコントロールが全くもって効きません。
そんな中、大暴れをする息子は私に向かって、本当に憎らしそうにも見える表情をして叫びました。
定職にもついてない無職のくせに、仕事もできない社会不適合者のくせに、指図をするな!!!
これがまぁ、許しがたいを超えて私はすごく悲しかった。いまだに根に持ってるよ、本音では。言っちゃなんだが、私は私でよくやってると思ってる、これ以上は出来ないくらいに頑張っていると思ってる、傷つきました😞
世の中には、たとえどれだけ思っても口に出さん方が良いことは多々あることは事実です。難しいけど、ここまではというラインを超えてはいけません。『人には個々に事情があるものだしね〜』と自分の心を調整したり、別の面から捉えたりすることだってとても大事な力です。息子はこれまでそんなことを考えたこともないのでしょうか。
…お前なぁ、そういうとこやぞ?
もう知らん。そう言いたくもなる時だってあるんです。だけど私は親だから、いつでも味方にならなければならないらしい(←おぉ同志たちよ🥲辛いこともあるけどさ、それでもなんとか耐えようぞ🥲)。
しかしこの日はさすがに夫も抱え続けたものがあったのかしら応戦となり、家の中はえらいことにはなったのですが(被害者はいつも幼い妹です😢)、
勝手をやって注意され、物に当たり妹を泣かせ、家族に対し暴言とも取れる言葉を吐き出しまくって暴れても、それでも当の息子は完全に被害者ヅラをしつづけているので話が全て平行線で伝わりません(ちなみにこのような自己憐憫?っていうの?たまに度を越して酷いんですがどうしたらいいの?)。
だけどこれはおそらくは、
↓本人にそのつもりはないのに、相手に不快感を与えている
↓本人にそのつもりはないのに、相手から不快感を示される
→『納得できない!僕が可哀想!』
という、実にいつもの“納得”がキーワードになる恒例パターンだと捉えることも出来るわけ。
っていうか、そう理解するほかありません。何でもかんでも、とにかく“納得”が伴わないと息子は爆発するのである。それが息子というやつだ、あぁ我が子ながらなんと難儀な子供だろう😢
さておいて。
私もしばらくは悲しい気持ちでいたのですが、それからたまたま近くに来たからと連絡をくれた友人と会い話す中で『そういえばそうやなー』と、ようやく気持ちを切り替えられたきっかけのようなものがありました。そう気づいてみれば、息子の癇癪から出たこの言葉には“時代の変化”さえも感じられる、前向きなことだとちょっと嬉しくなりました。
僕の頃には「お母さん」というのは家にいて当たり前のものだったよね。それが今では〜…。
本当ですね。しかもそれは無職ではなく主婦という当たり前の立場でした。そういえば先日我が家ではこんなことがありましてね…(←と要らん話をする私、笑)
ははは、威勢が良い。思春期だねぇ、笑。
ほんまやで。意味がわからん、親の顔が見たいとはこのことだ😩
僕からはその親の顔がよく見える。仕方がないよねぇ、笑。(←どういうことw)
そうだった。このたった一世代という時間の間に、時代はやや変わっていった。今50代の友人のお母様は家にいるのが“当たり前”という状態だったが、今13歳の私の息子のお母さんは外で仕事をしていることが当たり前になっていたと、そういうことだというのだろうか。それは私のどうしようもない息子に言わせれば「社会不適合」という表現にさえなってしまうほどに。(←まだ根に持ってるぜ😁)
もちろんね、何が良いかはわかりません。
だけどここで私はハッと、世の中の当たり前はどのようにでも変わるものだと改めて思ったのです。
そうして私は、いつかもうほんの少し先においては、息子のような難儀な子でも当たり前に立場を持って生きていける、そんな社会に変わっていってほしいのだと願いました。
みんな違って当たり前。
なんか違っててもどうでもいい、「そうなんだね」で済めば良い。
その時代の日本語からは“普通”とかいう謎の単語は消滅さえもしていてほしいと思います。
それぞれが得意を持ち寄って、自分らしく生きていくことが当たり前になってほしい。否定をしない、否定をされない、他人軸の押し付けもなく、自分の心以外のものでモチベーションを下げられない、大事なことは他人の権利を損なわないこと、学校に行かないからってなんなんだ。
そんな社会の在り方へと近づいていってほしいなぁと私は改めて願いました。
コメント