みなさんこんにちは✨
GW中は旅行に出させていただきました。ちょうど昨夜に帰京しまして、再び日常に戻りつつある我が家です😊旅行中にはたくさんの懐かしい人に会えたし、たくさんの話を聞きました。お世話になった恩師が“私の進路”についてを振り返って仰ることや、友達が当時の私をどのように見ていたのかなど、私にとっては今だから気づける“発見”などもありました。息子の思春期にも生かせそうだと感じました。そんな話はまた、いずれ何かの機会に記録したいと思います😊
さて、今日は最近読んだ本の中で、とても勉強になったものをご紹介方々記録しておこうと思います。
当サイトを読みに来てくださるような方々におかれましては、“ニューロダイバーシティ”という言葉はずいぶん身近になってきたことでしょう。
先日、私は『ニューロダイバーシティの教科書』という本を読みました。
とてもシンプルな内容です。本自体も薄くて軽いです。だけどその中には必要な情報がぎゅっと詰まっていると思ったし、まさにこれはニューロダイバーシティとはなんなのかについてを正しく伝えることを目的とした“教科書”として書かれたのだと思いました。
ご興味がある方は、是非ともご一読を強くお勧めしたいと思います。
広くて深い、そしてまだまだ誤解も多いし間違った早計な対応が起こりうるのが多様性の現状です。
“ニューロダイバーシティ”という言葉の正しい理解は、当事者のみならず全ての方が備えるべき教養だろうと感じました。
ニューロダイバーシティの教科書/ 著: 村中直人
読書のきっかけ
“ニューロダイバーシティ”って、素敵な言葉だと思います。
私がこの単語を初めて知ったのは、比較的最近の話です。えっと確か、当サイトでも書いてましたね(↓)。
昨年秋頃、私は“発達障害”という字面が悪いと嘆きつつ、今後は“神経発達症”という言葉に置き換わっていくことや、海外ではすでに“ニューロダイバーシティ”という言葉が使われていることを知りました。私に新しい視点をもたらしてくれた、素敵な言葉だと思いました。それ以来、私は頻繁に“ニューロダイバーシティ”という言葉を使うようになりました。
ところで、これまでの私はニューロダイバーシティについて、『(脳や神経などの)構造上の多様性は当たり前にあることを皆が認め、尊重していこうとすること』だろうと捉えていました。
だけどさ、一度はきちんと勉強しなきゃいけないよね。想像だけで学びを止めたり、知らず知らずに間違って理解していてはいけません。
また、先日にメタバース(仮想空間)で開催された自閉症学超会議!に参加した際、たくさんの専門家が“ニューロダイバーシティ”という言葉を使っていたことも大変印象的でした。まさにそれは今の議論の中のキーワードでした。とても頻繁に見聞きしました。
そこで私は今一度強く思ったのです。
私は、本当に“ニューロダイバーシティ”について正しい理解をしているのだろうか?
もしも私の知識不足で話の行き違いがあったなら、それは私にとっても勿体無いことに違いない。
そこで私は、自閉症学超会議の場で、立ち話ながらも詳しそうな方に聞いてみました。
“ニューロダイバーシティ”について一度きちんと知りたいと思っています。おすすめの書籍などはありますか?
そこで、『あの本良かったですよ〜』って教えてもらったのが本書(↓)です。
早速手配をして手元に届き、気になった箇所は何度も繰り返しながら読みました。
そして私は学びました。ニューロダイバーシティは単なる多様性という意味ではない、と。それはもっと活動的で、歴史、成り立ち、当事者の勇気によって生まれてきた、とても積極的な言葉なのだと気がつきました。
簡単に言えば、『多様性を相互に尊重し、それらの違いを社会の中で活かしていこう』という考え方を含む社会運動としての意味合いなのだと理解しました。
とても勉強になりましたよ。ご興味がある方は是非とも読まれるといいと思います!
ニューロダイバーシティの歴史
本書ではまず、ニューロダイバーシティという言葉が生まれてきた背景について書かれていました。これには自閉スペクトラム者の経験がとても深く関与しています。
何かが劣っている、欠けている状態ではなく、独自の文化をもった文化的少数者であると位置付ける発想の転換です。
1-3 「文化」という視点より
自閉スペクトラム者を、独自文化に生きる人だと捉えよう。
そのような“独自文化”の先例としては、『聞こえの障害とろう文化』が挙げられて説明がされてありました。手話の世界では敬語もなく、まさに独自の文化があるそうですね。そして『どちらの文化がより馴染みやすいか』は、聞こえの障害の程度に関わらずにその人自身が規定して構わないという、そんな視点もあるそうです😲
自閉スペクトラム者が持つ“自閉文化”はろう文化ほど(外からは)分かりやすくないために理解が得られづらいことが現状なのかもしれません。しかし、まさにろう文化のように個人のアイデンティティとして自己をどの文化と結びつけるかは個人の自由でさえあり、尊重されるべき価値観の問題であると書かれていました。
私は、この『価値観の問題である』という記述がとても興味深いと感じました。
このことは、下記の記事(↓)で、私は自分を自閉スペクトラム者だと自信を持って言える一方、息子はいまだその価値観は持てていないという私たちの事例に通じるものだと思いました。
そしてそれは病理や障害としての理解とは、完全に別の問題なのだというのです。
私たちが生きていく上でのアイデンティティと尊厳に関わる事柄:それが、ニューロダイバーシティの本態なのだと私は改めて理解することができました。
ニューロダイバーシティの論点整理
一方、自閉スペクトラム者を異文化者として価値観の問題にしていく上で、すなわち非病理性を強調することへの問題点や論点についても丁寧な説明がありました。
「障害」や「病理」でないなら支援の枠組み自体の根拠がなくなってしまう可能性が考えられます。
2-1 論点整理より
この1月に改訂されたICD-11の時(↓)にも書きましたが、例えば発達障害が神経発達症になったように、かつては性同一性障害とされていた人が時代の変化に伴い“Disorder”から“Condition”へと変化しました。
“Codition”であるなら“支援は無用”となっていきそうで怖いです。事実、それがこれまでの発達障害への無理解であり、全てを個人の責任に押し付けてしまって排除や差別が行われてきたことの背景です。
すなわち、ニューロダイバーシティの考え方が普及することが根拠となって、今存在する支援やサポートが打ち切られることさえ危惧される。
そのような問題が浮上するのだということでした。
本書において、これについては『違いの中身』を理解することが大切だと書かれていました。例えばLGBTQの方々においては、多くはConditionという理解で差し支えはなさそうですが、“T:トランスジェンダー”の方に関しては性別適合手術やホルモン治療などの医学的支援が必要となるのは明白です。
発達障害や自閉スペクトラム症についても同じなのかもしれません。“知的障害”の部分についてや、特に大きな“困りごと”に対してはやはり医療的福祉的な支援はどうしても必要であると考えていけば良いのです。
このようにニューロダイバーシティとは、絶対的な正解があるわけでも、一律で考えられるものではないと理解することが大切です。常に社会全体で議論して、考えを深めて発信していくことが大切なのだと思いました。
『教育』『働く』『家族』xニューロダイバーシティ
本書で書かれていた『教育』xニューロダイバーシティの視点もとても興味深いと感じました。私も教育へのニューロダイバーシティの視点のあり方はとても重要だと実感しています。
また、『働くこと』xニューロダイバーシティのあり方についても、アメリカ合衆国の“シリコンバレー症候群”という言葉を例に、とてもわかりやすく書かれていました。
中でも私は特に、『家族関係』xニューロダイバーシティについての頁が興味深いと感じました。
家族の中に、異文化者がいる場合にはどうなるか。
文化が違うということは、生活の場において時に衝突を惹起します。私が育った家庭においても、そのようなことが度々起こっていたと思われます。“カサンドラ症候群”という状態もありますね。私の父は典型的な自閉スペクトラム者だったと今の私は捉えていますが、実際に母はとても苦労をしただろうし私が大人になってから両親は離婚をしています。
しかしこのような家族の中において、気をつけるべきことがありますね。
このカサンドラ症候群と呼ばれる現象の本質は、「障がい者(による加害)」と「健常者(が被る被害)」という構図の問題ではないはずです。(中略)ニューロダイバーシティの視点で「異文化間パートナーシップにおけるストレス状況」と考えるのが最も妥当ではないかと考えています。
7-1 家族の中の異文化相互理解より
そうなのです。
加害者と被害者、誰かのせいでとか、そういう考えで事態にあたっては家族が不幸になるだけだろうと私も思う。
異文化者が集まって生活をするのだから、ある程度のストレスは避けられない。まずはそれを受け入れた上で、それではどのような工夫ができるかを模索していくことこそがニューロダイバーシティの大切な視点なのだと理解しました。
渦中の家族は大変ですよ。発達障害があって癇癪持ちの家族がいると、やっぱりそれは大変なのです。
それでも、です。
(まぁ、どうしてもなら配偶者は離れてもいいと思いますが)特にそれが我が子であった場合には、なんとしても対応しなくてはならないのですから腹を括るしかありません。
神経学的多数派の両親から生まれた異文化の子
我が子、というワードが出たところで、今日の最後に私が最も大変なケースの一つだろうと心配することに触れておこうと思います。それは、神経学的に多数派の両親からポッと生まれた発達障害のお子さんがいるご家庭です。
我が家の場合。
幸いなことに(?)、私と息子は極めてよく似ております。
まさに、息子は私の“血を分けた存在”なのです。だから私は息子に(私にも)発達障害の傾向があると知って大きな納得を得たしスッキリしたという感覚さえを持ちました😊
だけどさ、これがもう、親に全く経験も想像もない状態から異文化者のお子さんがおられるご家庭は、もっと違った、大混乱のような辛さを持っているのではないかと思うのです。
この本でも言及されておりました(↓)。
親子関係には夫婦やパートナーシップとはまた違った面の難しさがあるかと思います。それは血縁関係があるということです。(中略)それはどこかで「自分と似た存在である」と感じるということです。その前提がある中で、自分と全く異なる脳や神経由来の文化を持った子供を授かるということは、想像以上に大きな体験であると思います。
7-2 親子関係とニューロダイバーシティより
『私なら、こうだったはず』『普通なら、こう反応するはず』
そういう思いが払拭できず、混乱すると思います。逃げ出したくなるかもしれないし、我が子への見方が変わってしまうかもしれません。親も子も、とても辛い状況になると思います。
(重ねて申し上げますが、息子の場合はあまりに私に似ていたために気づくべき兆候を完全に見落としてしまいました。それが幸か不幸かはまだわかりません。)
そのような方々に対して私の経験から言えることは何もないのが実際ですが、それでも私の視点から言わせていただくならば、少しはお伝えしたいことがあるのです。
① 特性があっても、それなりに成長してきた『私』という事例があります。
なんとなく、なんとなくでもなんとかなってきています。少しは肩の力を抜きましょう😊
② 普通の人はおりません。幻想なので比べることはやめましょう。
神経学的多数派の方々にも、誰1人として同じ人はおりません。“普通”というのは幻想であり、もともと存在しないのです。
私はかなり昔から『比べる』ことに興味はないです。他人は自分には関係のないことだし、比較はその子がその子らしく幸せに生きることとは全く別次元の話です。
それにさ、比べることってキリがないのよ。比べることは、例え“普通”の子を育てていたとしても優秀だったり運動神経が良い他のお子さんと比べてしまって謎の劣等感を抱えそう🤔キリがないよね。
その子本人と向き合って、その子がその子らしくあるためには何が必要なのかを考えていくことこそが大切なのだと思います。
③ 『自分軸』で結構だ!
↑の記事で書きましたが、私はママ友のシーナさんに衝撃的な指摘を受けて驚きました。
Naomiさん、他人に興味がないでしょう!?
ここで気づいたことは、どうやら世の中には“自分軸”で生きている人と、“他人軸”にも影響されながら生きている人がいることです。そして前者はきっと少数派、後者が所謂“普通”といわれる神経学的多数者の大部分が収まるところかもしれません。
だけどもう、生まれ持ったその脳神経学的な構造で、我々は生きていくしかないのです。自分軸でしか考えられない人であれば、もうね、『自分軸で結構だ!』と割り切ることもOKですよ。無理をして合わせる必要はないと思うし、そもそも合わせきれません。
大丈夫、それでもなんとかなってきた私がいます🤣
その勢いで、私は息子をなんとか健やかに育てていきたいと思います。
本書を読んで、そんな前向きな姿勢こそが真にニューロダイバーシティの在り方なのだろうと改めて思った次第です😊
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